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「りんごう村」
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 ふるさと梨郷(りんごう)村 No.1(佐藤 一)
★映画、「スゥイングガールズ」のロケ地だった
  このページトップの写真は、私のふるさと「梨郷村」です。東京の皆さんは、おそらく誰も知らないと思います。スーパー等で売られている主な農産物としては、食用菊と、「おかひじき」があります。純農山村地帯です。最上川(もがみがわ・旧松川)沿いに、田んぼと畑があり、約70%が山林です。山菜やキノコも豊富で美味しいです。写真の住宅に沿って鉄道の線路があり、手前に「 梨郷駅」があります。このあたりで数年前、女子高生ジャズバンド映画「スゥイングガールズ」のロケが行われました。女子高生十数人が、背後から気動車が迫ってきて、あわてゝ線路から田んぼに転げ落ちるシーンです。しかし、使われていた方言は、どことなく洗練されていて(?)地元のものとは、ずいぶん違うものでした。そんな中で、たしか女子高生が「おら、やんだ!」と、言っていました。私の母も、妹も、叔母さんたちも、自分のことを「おれ」といいます。男性にデートに誘われた時などに、「おれ、やんだ!」と言って断ります。

  ちなみに、私は進学のために東京に出て来たのですが、雪降ろしがイヤで田舎に帰りませんでした。雪降ろしの最中は、トタン屋根がつるつる滑って、屋根から落ちて亡くなる人もいます。屋根から落ちてくる雪に埋まって子供が亡くなったりもします。まさに、雪国は、命がけ。農家の人は忙しく、昼間通りを歩いている人は誰もいません。たいくつ・・・帰省して三日も経つと時間の長さに飽きてきます。梨郷村には、コンビニもなく、無医村で、食堂もありません。やっぱり映画で見るような街がいい、しかも東京でなければ・・・。交通の信号だって、私の知る限りでは、小学校の前の駐在所の横に一箇所あるだけです。田舎の子供が町へ行って横断歩道を渡る時に、交通事故に合わないための学習用なのです。私の頃は、その信号さえありませんでした。夢多き青少年が「こんな所で一生送りたくはない」と思うのは当然で、結果として過疎の村です。

  田舎の子供にとって、景色がきれいなんて別に見飽きた風景にすぎません。空気がきれい?冗談じゃありません!畜産と、汲み取りトイレのせいで臭いし、夏、家の中はハエだらけ・・・というわけです。昔は、犬もニワトリもアヒルも昼間は放し飼いにされて、自由奔放に暮らしていました。キツネもイタチもいて、「どこそこの、お父さんがキツネに化かされた」等という話が本気で語られていました。旧梨郷村は、山形県南陽市にあります。ホントは、冬以外はとてもいい所なんです。車で近くを通られましたら、ぜひ足を延ばしてみてくださいネ。
                       (2008.11.8 記載)

拡大写真が出ます食用菊

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.2 
★梨郷村は最上川沿い、下流には「おしん」の故里
 
 以前、NHKの朝ドラで人気を博した「おしん」、海外では今だに評判なんだとか・・・。おしんが、真冬にいかだで最上川を下るシーン有りましたよネ。酒田(さかた)の米問屋に子守奉公に出かけようとするところです。酒田までの道のりはかなり遠いので、そのままイカダで酒田まで下るのではなく、最寄の駅近くまでイカダで行くのでしょう。なにしろ、街道や大きな集落は、物資の輸送に便利な最上川沿いに集中していましたから・・・。芭蕉(まつおばしょう)の句でも有名になった最上川は、福島県と山形県の山境から始まり、山形県をほぼ縦断しています。もっとも、梨郷村近辺では、以前は松川と呼んでいました。「最上川」というのは、最上藩内を流れている所からきたものです。私の所は、その仇敵、伊達藩(その後の上杉藩も)だったので、同じ名前は使いたくなかったのでしょう。

  私の梨郷村は、米沢を含む置賜(おいたま)盆地のヘリの所にあります。ですから山が70%以上の村なのです。その広い盆地の周りは山ばかりですが、火山ばかりではありません。ですから太古の昔に隕石がぶつかって出来た巨大なクレーターではないかと思います。そして大昔は、今の盆地全体は、大きな沼だったといいます。その後、北側の「おしん」の故里辺りの山が、地殻変動などで裂け目が生じ、そこから沼の水が引いていったと言う事です。盆地の中は、ほぼまっ平らの海抜300メートル近く、冬寒く、夏暑い所です。ちなみに冬の気温は札幌並みです。夏の暑さはと言うと、70年以上もの間、日本の最高気温を記録していました。それを去年、熊谷と岐阜に破られてしまい、山形の数少ない「誇れるモノ」が、また一つ無くなってしまいました。ところで盆地の底に残った形の最上川ですが、日本三大急流の一つで、国土交通省直轄の第一級河川です。毎年、2回は洪水を引き起こしていました。そのせいか、昔は木の橋はほとんど掛けられませんでした。普段、川が穏やかな時は、酒田まで米を運ぶ等、物資の運搬はもっぱら最上川に頼っていました。

  そんな中で梨郷村は、ほぼ最上流の常設舟着場があった所です。そこから上流になると、渇水期には使えませんでした。短期間に、県内全域の大量の年貢米などを運ぶわけですから、小舟でという訳にはいかなかったと思います。俵を濡らしてしまったら、モミがダメになってしまいます。川をシュンセツしつつ、多少大型の舟を使っていたに違いありません。ちなみに、酒田からは大坂まで、廻船が米俵を運んでいました。上流の米沢ともなると、普段は水かさも水深も少なく、水運に使える日数も限られていました。梨郷村付近に限らず最上川は、大井川の様に網の目状に水が流れているのではなく、川幅いっぱいに水をたたえています。今は途中で農業用水等で使うため、その水量はかなり減りました。梨郷村は、ほぼ(私が子供の頃も)100%農家でしたが、その舟着場(舟場と呼んでいた)だけは、7.8軒の店や倉庫等があって、近郷近在から物資や人、馬が集まり賑わっていたそうです。私の父方の祖母の実家はそこで「ちょうちん屋」を営んでいました。これは戦前の、私の父も生まれる前の、おそらく明治時代の話です。祖母は29歳の若さで亡くなり、写真でしか見た事がありません。その舟場もコンクリートの橋がかかって舟での「渡し」がなくなり、やがて運送の主役も鉄道に取って代わり、さびれていったのです。

  私は子供の頃、父母や妹と共に、それまで空き家になっていたという、祖母の実家に住んでいました。犬と猫と山羊を飼っていました。家も隣と2軒だけになってしまい、隣は農業だけになっていました。どちらも土間の広い、住居兼店舗だったらしい大きな家の造りでした。私は小さい頃、誰も来なくなった広場のような、舟着場の通りで、一人三輪車を乗り回して遊んでいました。父は、最上川で「建設省」の堤防工事の仕事をしていました。そして、建設省の役人として退職しました。
                      (2008.12.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.3
★梨郷村には、隣村の村長が住んでいた
  学校で式典があると、よく梨郷村の村長や役員等が壇上で、挨拶していました。しかし、村内の別の地域の人だったのでよく知りませんでした。だいたいそういう時に挨拶する、村長とか教育委員会の人とか皆、紋切り型の話ばかりでした。多分前の晩、寝ずに練りに練り上げて原稿を書き上げたのでしょうが、誰の考えも同じらしく、さっき別の来賓が言った事とあまり話の内容が変わらないのです。しかも、自己満足的にその時間が長い事・・・。同じような話を何回も聞く身にもなって欲しいと言う気持ちでした。今となってはどの人も印象が薄く、誰も覚えていません。ところが隣村(大塚村という)の村長はよく覚えています。少しだけ話したこともあります。もっとも、注意されて悪態をついただけですが・・・。通学時に、しょっちゅう見かけていました。当時は、別に何とも思わなかったのですが、今考えると不思議でならない事があります。実は、その隣村の村長は、私の梨郷村の住人だったのです。戦後出来た、開拓地域に住んでいて、毎日隣村(の役場)に自転車で通っていました。その開拓地域には、満州(まんしゅう)から引き上げて来た人等が入植していて、標準語を話す都会的な人達もいました。

  大人達の話によると、その隣村の村長は優秀な人だったらしく、隣村と幾つかの村が合併して「川西町」と、なってからも町長となり、相変わらず梨郷村から通勤していました。今考えると、隣村の住人で対抗馬はいなかったんだろうかと、思ってしまいます。もっとも、前長野県知事の田中康夫さんもよそ者でしたが、少なくとも長野の片田舎に住民登録をしていました。私が田舎にいた頃、山形県知事といえば、いつまで経っても我孫子藤吉(あびことうきち)さんと言う人でした。この我孫子藤吉さんという人は、後に参議院議員になり、当選回数が少なかったにもかかわらず、自治大臣をやりました。おそらく東大出の官僚出身だったのでしょう。子供の頃の国会議員というと、自民党田中派の「大番頭」、木村武雄さんという人です。父の働いていた最上川の河川工事に、沢山の予算を持って来た人です。建設大臣もやりました(建設省の役人だった父は、ファンだったらしい)。そして、よく失言をしていました。

  同じ東北でも、原敬(はらたかし)に代表される岩手県等と違って、山形県からは優秀な政治家はあまり出ていません。期待された例の「加藤の乱」でお馴染みになった加藤紘一(こういち)さんも、優柔不断とのもっぱらの評判で、「山形から、ぜひ総理を」と言う県民の悲願とは裏腹に、首相の器ではありませんでした。加藤さんが総理大臣になったからといって、性格上あまり地元に予算は持って来ないと思うけど・・・。その加藤さんも、防衛庁長官をやっていた頃は、青年将校の様に背筋も伸びてさっそうとしていました。小泉さんに負けず劣らずで、現防衛大臣の石破さんなんかより、ずーっとカッコよかった。山形県民は、加藤さんは将来きっと総理大臣になるに違いないと、確信していました。しかし今は、当時の面影は皆目ありません。ところで、先の隣村の村長さん、ぜひ県会議員に、という誘いも結構あったという事でした。しかし、当時子供だった私には只の老人にしか見えませんでした。多分、本当はそんなに年取ってはいなかったんでしょう。なにしろ子供にとって40歳以上は、全て老人ですから・・・。実際に、議場等の質疑応答等を見たら、きっと「この人は、スゴイ!」と、思ったかもしれません。

  そう言えば以前、ウチで午前中、受付のアルバイトをしてくれた芸大生がいました。その娘は、ピアノ科の学生で、しょっちゅう演奏活動をしていましたが、実際にピアノを弾いているところを見た事がないので、その辺のネエちゃんとしか見えなくて、「スゴイ女性なんだ」とは、全く感じさせませんでした。でもそのうち、有名なピアニストになるかもしれないのです。人は見かけに寄らないと言うし、知らないと東大のエライ先生も、只の患者さんだったりします。本当にエライ人というのは、気負いがないせいか、見た感じ只の普通のオジサンにしか見えなかったりします。中学校や高校の先生なんかの方が、ずーっと立派で頭が良さそうに見えたりします。東京という所は、時としてとてつもないスゴイ人が、近所に住んでいたりします。梨郷村では、殆んどの人は素性が知れているのですが、ひょっとして、隣村の村長さんは、外から舞い降りた「世が世なら・・」という人だったのかもしれないのです。

       
                 (2009.1.1記載).
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.4
★梨郷村を含む米沢領は、かつて直江兼続の所領だった
  写真のお寺は、かつて米沢(山形県)等を治めていた伊達(だて)家の家臣で、梨郷村一帯を治めていた増田氏が建てたといわれています。梨郷村を見渡せる山の中腹に建っています。かつて、お年寄りや、和尚さんから聞いた話によりますと、、元々は、その場所には天台宗のお寺がありました。それが焼失した後、帰依していた増田氏が再建した時に「本覚寺」という現在の名前になったということです。「関が原」以前のハナシです。その後、江戸時代の天明・天保と、度重なる飢饉の時など、今で言うホームレス(日本語だと差別用語になるので)と化した人達が床下に寝泊りし、焚き火等によって幾度か焼失したという事です。飢饉になると、年貢米を納めきれず、夜逃げしたりした元小作人の人達なのです。餓死者が出て、時には、村ごと夜逃げしたなんて、歴史の授業で習いましたよネ。お寺の床下は高くて、雪国ではホームレスにとって格好の住み家になったのでしょう。

  私の家のお墓も、このお寺にあります。私の祖先は、越後から来たということです。領主が直江兼続(なおえかねつぐ)の時か、上杉景勝(かげかつ)の時かは分かりません。何しろ、先に述べました火災で、お寺の過去帳も焼けて無くなってしまったのです。家康とうまくいっていなかった上杉景勝は、国替えによって領地を減らしました。取り潰しよりはマシでしょうが、秀吉の時に越後から(米沢領を含む)会津へ移封後、家康の時、自分の家臣直江兼続の領地であった米沢領のみに縮小されたのです。そして米沢藩主として引き継いだのです。ちなみに、直江兼続は豊臣秀吉の覚えめでたく、直接、豊臣の姓と共に、旧伊達領だった米沢領を拝領したとの事です。優れた武将だったのでしょう。そして、ぜひ秀吉の直参にと乞われたといいます。上杉家は豊臣の時代、五大老の一つで大藩でした。元々上杉家は関東管領の家柄で、江戸城を作った太田道灌(おおたどうかん)も、上杉の家臣だったということです。

  その大人数の上杉家臣団全部が、さほど大きくない米沢藩に入って来たのですからたまりません。家臣の禄高を半減するだけでは足りずに、梨郷村等にも下級武士達が、山地を開墾して土着したということです。その殆んどは、武士とは名ばかりだったのでしょう。当然、藩の財政は逼迫して苦しく、それを立て直したのが、クリントン元大統領も尊敬する日本人の一人だと言う、上杉鷹山(ようざん・出家後の名前)です。上杉鷹山は、新渡戸稲造(にとべいなぞう)の英語の著書によって、外国に紹介され有名になったんだとか・・・。高鍋(たかなべ)藩主の側室の子として生まれ、上杉家の養子になりました。元大藩の、贅沢に慣れきった重鎮達によって、幽閉寸前までの猛反発にあいながら、質素倹約を旨とする藩政改革を断行しました。言わば米沢藩の、中興の祖です。米沢を含む置賜盆地内の、小学生から勿論お年寄りまで、鷹山公を知らない人は誰もいません。養蚕を奨励し、米沢織りで有名な現在の産業の基盤を築き、その蚕(カイコ)のサナギをエサにして、鯉(コイ)の養殖を始めたといいます。

  カイコというのは、一種の蛾の幼虫で、大人の指より少し小さいぐらいの大きさで、真っ白い色をしています。サナギになる時マユをつくります。そのマユから絹糸を紡ぐのです。山沿いの梨郷村などには、それと漆の木の栽培を奨励しました。高価な絹糸は、アメリカのデュポンがナイロンを発明するまで、明治以降、日本の輸出の基幹産業でした。洋の東西を問わず、身分の高い人やお金持ちは、絹織物を身に着けていたのです。今、女性のストッキングはナイロンですが、かつて貴婦人の靴下は絹でした。私が子供の頃はまだ、梨郷村にはカイコのエサにするための桑畑がいっぱいありました。小さい子供なので、ひと(他人)のウチの畑に平気で入り込み、ビッシリとなった甘い桑の実を、よく食べていました。カイコは、葉っぱしか食べず、実はジャマモノでしかありません。好んで食べていたのは子供だけで、大人が食べているのは見た事はありませんでした。ですから少し後になると、実を付けない状態の桑の木を植えていました。

  小学校の遠足では、隣町の製糸工場を見学しました。かつて、近郷近在の町や村には、製糸工場が沢山あったといいます。私が見学した製糸工場は、その辺りで最後に残った製糸工場で、廃業する何年か前でした。そして、高校生の頃には、桑畑は殆んどなくなりました。かつては、梨郷村の農家は殆んど全部といっていいくらい、カイコを飼っていました。そして、どこの家にも、昔使ったという足踏み式の「はたおり」の機械がありました。近所に父方の祖母の姉が住んでいましたが、その家は通称「はたや」と、呼ばれていました。実は、隣村には「夕鶴の里」と、いうのがあるのです。私は母の実家などで、平気でカイコをつかんだりして遊んでいましたが、咬みつかれた記憶はありません。長く人と生活するうちに、飼い慣らされてきたのでしょう。寝静まった真夜中、サワサワと大量のカイコが桑の葉を食べる音がするのです。農家には必ず猫がいて、カイコがネズミの被害にあわないように見張っていました。ちなみに、猫はカイコを食べません。

  子供の頃住んでいた旧舟着場には、大きな栗の木があって、夏にはカイコぐらいの大きさの緑色の蛾の幼虫が沢山くっついていました。昔、この幼虫のお腹(絹糸腺)から採取した糸で、釣り糸を作ったということです。テグス(天蚕)といいます。やはり、ナイロン発明以前迄は、こうして釣り糸を作っていたのです。きっと、舟着場でテグスを売っている店があって、そのために育てていたのが野生化したのでしょう。栗の木の葉だけををエサにしているので、栗の実の害虫ではありません。時々、木の上からポトンと地面に落ちてきました。父の釣竿の一本にナイロンの糸とは違うものが付いていたのを覚えています。多分、このテグス糸だったのでしょう。この幼虫もカイコぐらいの大きさのマユをつくりました。雨の当たらない物影などによく見かけましたが、カイコのそれとは違って表面が茶色の網目状で、サナギの保温になりそうではありませんでした。しかし、雪国の冬を越すわけですから、多分内部のサナギの周りに、保温装置があったのでしょう。

  私が子供の頃は、まだ松川(現最上川)に川漁師もいましたし、農家の人も時々漁をしていました。たまに、ハッパ(ダイナマイト?)をかけていました。大人は「ハッパ」と言っていましたが、それは誇張した表現で、本当は、カーバイトだったのかも知れません。そうすると、轟音がして、大量の魚が気絶して浮き上がってくるのです。その松川も、私が上京した後の昭和40年代後半に入ると、支流域でカドミウム米が発見されたりして汚染され、釣った魚を食べる人は誰もいなくなりました。昔はきれいな川だったということで、旧舟着場の古いゴミ捨て場からは、川シジミの貝殻がいっぱい出てきましたし、サケも上る川だったそうです。

       
                (2009.2.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.5
★梨郷村にも、かつては隠れキリシタンがいた
  写真は、屋敷近くの畑の一角に造られた墓地です。今のお墓は、梨郷村では全てお寺に作りますが、古い時代のお墓は、この写真のように自分の家の畑の一角に造ったようです。ご先祖様に、畑を見守ってもらおうということでしょうか・・・。ですから、この家で最近亡くなった人のお骨は、お寺の方の、別の墓地にあるお墓に納めてあると思います。旧家に多いので、梨郷村にお寺が出来る以前に埋葬されたものかも知れません。大昔は、おそらく梨郷村には、お寺はなかったのでしょう。集落としての歴史は古く、最上川べりの丘陵地に石器時代から存在していたらしく、石器や土器が出土しています。埋葬の習慣は古くから有った訳ですし、定住すれば墓地も出来たと思います。大げさに言えば、日本に仏教伝来以前の話になってしまいます。

  写真のお墓は、以前は土饅頭(どまんじゅう)に卒塔婆を立てただけだったものかもしれません。墓石は文字の見え方からして、後の時代になってから乗せたものでしょう。昔は、お金持ちの旧家以外は、墓石など建てませんでした。殆んどが、土を盛り上げただけの土饅頭に、卒塔婆を立てただけでした。それと言うのも、半世紀前までは全部土葬だったからです。以前に埋葬した所を掘り返し、再利用して埋葬するのです(墓石が建ったお墓は掘り返しません)。そして、埋葬直後の一定期間、土饅頭の周囲に設置した三本の木のクイで三脚状にヤグラを組み、束ねた所から荒縄でぶら下げる形で、狼除けと伝えられる大きな石を載せました。石が土饅頭から転げ落ちるのを防ぐような仕組みかと思われます。おそらくは、この石が世界共通の墓石のルーツかも知れません。洋の東西を問わず、亡骸を野獣に掘り返されるのを警戒したのでしょう。現在は火葬ですし、信仰心の厚い、地方に行く程、競って立派な墓石を建てます。

  梨郷村は、上杉以前は短期間、蒲生氏郷(がもううじさと)の領地でした。蒲生氏郷は、信長が惚れ込んで自分の娘の婿にした程の、文武両道の優れたな武将でした。豊臣の時代、伊達の後を引き継ぎ、会津・米沢領を治めました。信長の近習として、信長と親しかったイエズス会宣教師の影響を受けたのか、カトリックに改宗し、キリシタン大名と言われた一人でした。そのせいかどうか分かりませんが、梨郷村の名家の中にもキリシタン数名がいたそうです。そいえば、伊達政宗の遣欧使節でローマ法王に謁見した支倉常長(はせくらつねなが)も、カトリックに改宗したといいます。当時の進歩的な日本人にとって、キリスト教は西欧の目新しい文化と共に、新鮮な感じがしたんでしょう。一方で、当時の日本仏教界は都に強訴を繰り返し、一部は戦国大名並みに強大な兵力と財力を持ち、中には酒と女色に溺れる等して、堕落したところもありました。ですから、宣教師達のストイックな生き方を見聞きし、宗教の本質をカトリックに見出したとしても不思議はありません。やがて、キリスト教禁止令が出されても、梨郷村のキリシタンは信仰を捨てず、布教活動の末に処刑されたということです。

  その後は潜在化して、隠れキリシタンとしての道を歩むことになるのです。蒲生氏郷自身は改易にならず、そのまま会津・米沢領に留まり治めていたので、(表向きには?)カトリックを捨てたのでしょうか・・・。ちなみに氏郷の死後、蒲生家は下野・宇都宮に国替えしました。後の上杉藩は、キリシタンには寛大で「当米沢藩には、キリシタンは一人もいない。」と、江戸幕府に報告していたそうです。布教活動を控えてひっそり暮らしているキリシタンは、大目に見ていたのかも知れません。なにしろ、謙信(けんしん)公由来の「義」の精神ですから・・・。私の勝手な推測にすぎませんが、その隠れキリシタンのお墓が、宗旨の違う仏門に埋葬する訳にいかないので、屋敷近くの畑の一角に埋葬したと考えられなくもないと思います
上の墓地の写真を見ていると、なんとなく一族だけで寄り添っている様な気もします。右側端っこの小さなお墓二つは、幼くして亡くなった子供と水子のお墓でしょう。
       
                 (2009.3.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.6
★梨郷村の大人達は万能で、何でも出来た
  梨郷村は私が子供の頃は、純、農山村でした。昔から比較的大きな自作農が多く、家屋敷のかまえも立派で大きな家が多い所です。盆地内の他の地域は、耕作され尽くしているのに対して、梨郷村は盆地のヘリで7割以上は山ですが、高い岩山ではなく、奥まで樹木の密生した比較的低い山ばかりです。ですから、開墾すれば耕地を増やせたせいもあったのでしょう。ですから、「おしん」の実家のような貧農ではありませんでした。人々は農家としてのプライドを持っていたと思います。そこで、梨郷村の大人たちは、子供の頃の私にとって何でも出来るスーパーマンのような存在でした。いつも「大人ってスゴイ。」と、思っていました。しかし、これはあくまで、私がよく知っている昭和35年頃までの梨郷村に限られるかも知れません。

  元々農村は、自然の恵みが豊かで、集落単位でほぼ自給自足の生活をしていました。「百姓」というのは、今の若い人にとって差別用語に聞こえるかも知れませんが、とんでもない。立派な誇り高い職業です。百姓というのは百の姓(職業)、つまり百の職業と言う意味なのです。日本には、農耕が始まったとされる弥生時代以降、一部を除いては、ほとんど農民しか存在しませんでした。天皇陛下も皇居で田植えをなさいますし、皇后陛下も養蚕をなさいます。そして、一年を通じて農業に由来する神事も沢山あります。武士も事の成り立ちは、律令時代の末期に、自分で開墾した自作農地としての「名田」を持つ名主が、自衛のために武装したのがその始まりとされています。又、手工業などは、農閑期の副業が始まりです。より品質の良い物が求められるようになるにつれて、その中から職業として分業化し、専業化していったのでしょう。ですから、日本のかつてのあらゆる職業は、農業から派生したものと言っても過言ではありません。つまり、百の職業なのです。

  私が子供の頃、梨郷村の農家の人は、冬場の出稼ぎになど出ませんでした。冬は冬で忙しかったのです。雪降ろしも大変ですが、そんな事はまだ些細なことです。特に大変なのは、藁(わら)仕事です。昔は、米は俵に入れて出荷しました。他にも、夏の間に農作業で使う、ムシロやカマス、蓑(みの)、縄・・・等、冬仕事に全部作るのです。雪にうずもれた薄暗い家のイロリの脇の土間や納屋で、毎日毎日、藁仕事をしていました。まだ結婚前の若い衆(男性)達は、旧家の大きな家の納屋に集まって一緒に藁仕事をしていました。ようやく機械の縄ない機や、ムシロ編み機が出始めた頃の話です。町まで遠く娯楽もないので、せめて仲間内で集まって将来の夢でも語り合いながら、大変な作業をこなしていたのでしょう。どの家の土間にも、丸みがかって平べったく大きい御影石を半分埋め込んでありました。その上で、細工し易い様に藁を充分叩いて柔らかくしてから、縄やぞうり・雪靴などを作っていました。女性は、その他に家族のセーターをほどいて編み直したり、野良着を作ったり、打ち直した綿で家のフトンを作り直したりと、いろいろ大変でした。童謡の「かあさんの歌」は、もっと以前の戦前のものでしょうが、昔は、時代の変化が遅かったので、私が子供の頃でも殆んどそのまんまという感じでした。

  昔の農家は、買うものは殆んど無く何でも自分で作ったのです。ですから何でも出来たのです。又、何でも出来なければ暮らせなかったのです。農業、特に水田は、一人だけでは出来ません。灌漑用水の整備や、入会地の手入れなど共同作業がつきものです。つまり土木工事です。カヤブキ屋根の葺き替えなどは人数と経験を要します。ですから、掘っ立て小屋くらいは誰でもなんなく作ってしまいました。それから、村の集落ごとに消防団が組織されていて、火災のみならず、最上川の洪水、山の土砂崩れなどの対策と、時には自警団として地域の安全を保っていました。つまり、地域の山や河川の地形や状況などを知り尽くした者でなければ出来ない緊急時の活動です。それらのノウハウは、全て次の世代に受け継がれていきます。学校を出るとすぐ、地域の青年団に入って、その地域での伝統的な習慣や技術を身に着けていきます。農村での一番小さな組織単位は、東京の町内会に当たる「五人組」です。江戸時代に出来た制度で、冠婚葬祭や出産など、助け合う反面、連帯責任も取らせて、農民の足かせにした面もありました。そういうわけで、自分達で何でもやってきたので、スーパーマンみたいに何でも出来る人間になったのです。

  子供のオモチャやスキー、お手玉、コマ、凧など皆、親が作ってくれました。近くに店がないので、おやつも全て母親が作ったものを食べていました。女の子は、それを手伝いながら覚えてお嫁に行く、といった具合です。ですから、大福などは、少し時間が経つと硬くなるのです。稲荷ずしも、みたらし団子も、オハギも待ちきれずに食べるので、出来立てでまだ温かく、頬張ると口いっぱいに香りが広がるのです。私はコンビニで稲荷ずしや、みたらし団子を買うと、必ず電子レンジで人肌に暖めてから食べています。今しがた出来立てという感じで、とてもおいしいですヨ(今度、ためしてみてくださいネ)。そんな事とかいろいろあって、子供の私にとっては大人は何でも出来てカッコよく見えました。そして、いつもあこがれてマネしていました。例えば、刃物なしで素手でやる荒縄の切り方とか、口笛の吹き方とか、寒い時のホウカムリとか、ガニ股の歩き方とか・・・。たいていのことはマスターしましたが、どうしてもうまくいかなかったことがあります。

  これから先は、いささかビロウな話になってしまいます。ちなみに、昔は(農村では?)ちり紙など使いませんでした。トイレも新聞紙だったし、まして野良仕事中は、紙は持っていません。鼻が垂れそうになると、子供は無造作に袖でぬぐったりしていました。大人はそんな事をしないで、器用に「手鼻」をかんでいました。片っ方の鼻の穴を横から押しつぶすように、親指か人差し指で押さえて「ふん!」と、もう一方の鼻の穴から、球状になったものを空中に飛ばすのです。鼻の下は絶対汚さないのです。衣服も汚さないそのやり方が、子供の私にはカッコよく見えたのです。大人の男性は全部上手にやっていましたし、私の母も(農家の出なので?)人のいない所では、やっていました。しかし、私がやると、鼻の下にだらしなく垂れて汚してしまうのです。時々鼻血が出るほど練習しましたが、結局うまくいきませんでした。実は2・3年前も、帰省した際に誰もいない所で、しばらくぶりで挑戦してみました。大人になると鼻の構造がそれ向きになって、出来るようになるのかも知れないと思ったからです。でも結局はダメでした・・・。

  それはさておき、
現在の梨郷村は、祖先達の誇り高くたくましい自給自足の生活からは程遠く、何でも金で買います。そして、政府の農政の貧困さもあって、お百姓としての自信も誇りも失いかけているのかも知れません。又、日本人全体としても、自信も誇りも失いかけているのかもしれません。今こそ、温故知新。「美しい国」、日本です。

       
                 (2009.4.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.7
★梨郷村の秘境と、少年の日の冒険  
  梨郷村は南北に長く、洋梨の形をした村です。南側の隣村との境は、松川(現最上川)です。川沿いに田んぼが広がり、山沿いに畑があります。大部分の民家や旧街道は、繰り返される洪水を避けて小高い山沿いにあります。その北側で村の大部分は、山また山で森林に覆われています。特に北側の村との境は、持ち主はおろか国土地理院の人もめったに行かないと思います。近年知ったのですが、北に隣接する所は上山市(かみのやまし)といって、鈍行列車で回り道して行くと1時間以上かかる所です。その北側の梨郷村の一部は、私が知らないうちに上山市に吸収合併されていました。その北端までの途中には、梨郷小学校の分校がありました(現在もあるかどうか分かりません)。生徒数は全校10人以下で、夫婦の先生二人が赴任していました。山深く、遠過ぎるので私は行ったことはありません。その大分手前ですが、それでもやはり山奥に、中学校の演習林がありました。実は、私が梨郷中学校に入学する以前、梨郷中学校は「全国植林コンクール・中学校の部」で、はえある準優勝に輝いたんだとか・・・先生や地元の先輩たちは、大変誇りにしていたようです。きっと、戦後の復興期で木材が不足したために、そういう教育がなされたんでしょう。

  それは確か、中学1年の春頃だったと思います。、やはり植林の実習があった時の事です。朝、学校に集合し、先生も含めて全校で学校の山に行きました。各自数本ずつの杉の苗木を植え、持参の握り飯を食べてから、現地解散と言う事になりました。たいていの人は、一旦学校に戻ってから家に帰ります。殆んどの地域は、その方が便利だからです。しかし、私が住んでいた集落は学校から最も遠く、一旦学校に戻ってから帰ると道のりは随分遠いものになります。そこで、近所に住む男子数人で山道を近道して帰ることになりました。その山道を多少知っている(?)という上級生がいたからです。そういうことで、山道を歩き始めました。所々に数軒ずつの民家があったりして、こんなバスも来ない山奥にも人が生活していると思うと、新鮮な驚きでした。多分、林業の他、蕎麦の栽培・キノコ山菜採り・炭焼きなどで生計を立てていたのでしょう。そして随分歩いた時、突然目の前に少し広い空間が開け、そこに木造の西洋館が忽然と現れたのです。まるで宮沢賢治の童話の世界に、迷い込んだような感じです。一瞬、キツネに化かされているのかと思った程です。

  当時梨郷村の民家の殆んどは、障子に茅葺屋根の和風・養蚕農家の造りでした。西洋風の建物は、明治期創立の学校など町場の公共の建物以外ありませんでした。皆、山での作業に加え歩き疲れたので、その家の前の広いテラスに脚を投げ出して休んでいました。すると、家の中から都会的な40代程の夫婦が出て来ました。昔の中学生は、今より子供で童顔だったので、気を許したのでしょう。いろいろ話をしてから家の中を見せてくれました。実はこの夫婦は、この家の留守を預かる管理人夫婦だったのです。その中の一部屋に、黒光りするグランドピアノが置いてありました。当時昭和30年頃で、梨郷中学校でさえまだピアノがなく、オルガンしかありませんでした。当時のピアノは舶来品で、高価なものだったのです。小学校には縦型のピアノはありましたが、実物のグランド・ピアノを見たのはこの時初めてでした。後の東京オリンピック前後の学生時代、アルバイト先の東京のアメリカ人宅でも、同じような体験をしました。建物の壁面全体が蔦(ツタ)で覆われた、鉄筋コンクリート4階建ての西洋館でした。夏は直射日光が、蔦で遮られて外壁に当たらないため、建物内は驚くほど涼しく、冬はその葉が落ちて暖かい陽が当たるという仕組みでした。終戦直後から借り受けているという話でしたが、現在はもうありません。

  終戦直後、米軍は上級将校の住宅用に、旧華族などの西洋館を多数借り受けたのです。ちょうど、映画「風と共に去りぬ」に出て来る様な内部の家でした。玄関ホールから入ると、吹き抜け状に、赤いジュウタンを敷き詰めた幅2メートル程の階段が有り、その階段ホールを取り囲む形で2階接客用の書斎・応接間・ダイニング・ルームに連なり、さらに上の階の主人一家の個室、来客用寝室へと続いていました。「フレンチ・スタイルの家」と言っていました。外国映画などでは、召使が招き入れた大勢の客の所に、上の階から着飾った主人や令嬢が階段を降りて来るシーンがよくありますネ。広い応接間には西欧直輸入の調度品と共に、やはりグランドピアノが置いてありました。家主は旧財閥系の一つでしたから、かつて賓客のあるパーテイの席上、楽士が呼ばれたのでしょう。弦楽器など、他の楽器は自由に持ち込めますが、大きなピアノは出し入れが大変なので、使う頻度によって据え置かれたのでしょう。

  所で、その梨郷村の西洋館の場所は、ひょっとしたら隣接する長井市に属していたのかも知れません。いずれにしても、山奥の帰り道すがらでした。後日、やはりお金持ちの別荘だと聞きました。とても風光明媚な所でしたが、冬場は雪に閉ざされて、留守番の管理人さんだけだったのでしょう。頻繁に雪降ろしをしないと家は潰れてしまいますし、雪深く交通手段もなく孤立してしまう様な場所でしたから・・・。その後、その別荘はどうなったかは分かりません。私が半世紀前暮らした梨郷村での、思い出深い体験の一つです。

       
                 (2009.5.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.8
★置賜盆地最大の舟着場は、「長井」だった
  最上川の水源は、山形県と福島県の境にある吾妻(あずま)連峰にあります。そして米沢を含む置賜盆地の中を流れて来て、梨郷村で再び盆地の縁の山に差しかかってきます。そして少しの間は山に沿って流れ、やがて峡谷を抜けて庄内(しょうない)平野へと流れて込んで行きます。その間に大小の清流が本流へと注いでいます。その峡谷の手前に、長井市という所があります。梨郷村・舟場(舟着場)の下流で、置賜盆地最大の舟着場として、最も栄えた所です。そもそも長井という地名は、伊達領以前は米沢を含む広大な地域を指していました。領主は鎌倉幕府の重鎮、大江広元の、次男の家系でした。そして、所領の長井氏を名乗っていました。梨郷村も当然、長井領に属していました。ちなみに同じ山形県の庄内平野には大江町という所があって、その辺一帯は大江広元(おおえのひろもと)の所領で、その長男の家系が代々支配していました。

  大江広元は、京都から頼朝に招かれて、鎌倉幕府の政治体制を作ったという人で、政所(まんどころ)の初代長官を勤めました。大江氏と同様に一族の長井氏も鎌倉幕府の御家人で、鎌倉に詰めて居を構えていたために領地には着任せず、代官を置いて治めていました。ですから梨郷村に於ける長井氏の痕跡はあまりありません。やがて、その根城を伊達氏が襲って領地を奪ったということです。そして地名を米沢と改めました。長井という地名は一部にだけ残った形ですが、その長井は舟着場として栄え、交通の要衝でもありました。「前九年・後三年の役」で源頼義・義家父子が通ったゆかりの史跡等が残されています。昔は京都から、交通や物資の運搬に便利な、日本海を通って北上したのでしょう。なんでも母の話によると、母の実家近くに、「八幡太郎義家」の愛馬が弱った時、馬に水を飲ませるために、弓矢の先で掘ったという涸れる事のない泉があるんだとか・・・。なにしろ、主だった街道は物資の流通に便利な最上川沿いに集中していましたから。そういった旧街道は道幅も狭く、山の中を曲がりくねっていてバスも通らず、現在は地元の人しか利用していません。おまけに豪雪地帯なので、特に山間部においては急流のせいで凍らない最上川は格好の交通手段でした。「おしん」が、雪の最上川をイカダで下るシーンがありました。除雪のブルトーザー等ない時代、雪に閉ざされた中で川は唯一の交通手段だったのでしょう。

  ところでその長井市ですが、かつて置賜盆地内では米沢市に次ぐ大きな街でした。そして、他の地の殆んどが「村」でした。その長井市も国鉄の奥羽本線が通らなかったために、すっかり寂れてしまったのです。今では、奥羽本線が通っている後発の南陽市にすっかり遅れをとっています。後に支線の国鉄長井線というのが開通しましたがそれも「荒砥駅」止まりで、かねてから念願の山形駅まで到達する事はありませんでした。その長井線も国鉄赤字線の末、第三セクター「フラワー長井線」として生まれ変わり、かろうじて朝晩の高校生の通学用として残っているだけです。私が小学生の頃の国鉄長井線は、農作物などの貨物や乗客が多く、各駅には少なくても4人以上の駅員がいて、官舎もありました。現在はその殆んどが無人駅です。いずれは廃線になってしまうのでしょう。ちなみに、フラワー長井線の梨郷駅付近は数年前、映画「スゥイング・ガールズ」のロケ地の一つになりました。なお、写真の「梨郷駅」は、ロケ当時の古い駅舎で、現在は、ログハウス風のモダンな建物になっています。私は小さい頃、毎日走るSLを見ながら、蒸気機関車の機関手になりたいと、いつも思っていました。高校生ぐらいになると長井線に気動車が加わり、SLは貨物列車だけになりました。しかし、奥羽本線や米坂線の鈍行の旅客列車は相変わらずSLが主でした。

  私は高校2年の夏休み、米沢駅の機関区で蒸気機関車の下にもぐって掃除するアルバイトをしました。そしてその最後の日、走行するSLの運転席に乗せてもらいました。その時、数年後には全国の旅客列車からSLが姿を消すという話を聞きました。上京してからは、よく田端駅の橋の上から貨車の入れ替え作業をするSLを見ていました。田端駅は都内でも比較的遅くまでSLが残っていましたが、それもいつの間にか姿を消してしまいました。今でこそ人気の復活したSLですが、昔は黒い煤煙を吐き出すSLは時として嫌われ者だったのです。現在のように脱硫装置など付いていない煙突から吐き出されるススで、駅付近の建物は真っ黒でした。おまけに汽笛の音は、静かな農村では比類のない、大きなものでした。そこで既得権益を持つ運送業者・水運業者なども含めて各地で鉄道誘致反対運動が起きたそうです。ですから元はといえば山形駅も米沢駅も市街地から外れた所に出来たのです。街はずれに作らざるを得なかったのです。しかし今ではその駅前が、繁華街の中心になっています。断固反対を貫き通して、鉄道を通さなかった所もあります。その結果、先祖が営々と築き上げた由緒ある街が衰退してしまった例が、全国各地にあります。


  先見の明がなかったのだ、と言えばそれまでですが、物事の見極めと言うのは、とても難しいものです。現在の日本に暮らす私達としては、後世の人々のヒンシュクを買わないように気を付けたいものです。生き方も、政治も然りです。

       
                 (2009.6.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.9
★高校時代、長い鉄橋の上を歩いて通学していた  
  写真の鉄橋は、最上川(旧松川)にかかる元国鉄、現在は第三セクター「フラワー・長井線」の鉄橋です。手前が私の梨郷村で川向こうは、隣村の旧大塚村という所です。そして、梨郷村における最上川では、最下流の地域です。この写真は、私が上京後に父が建てた家の庭から、30年程前の真夏の昼下がりに撮ったものです。戦後出来た、開拓地域の入り口付近にありました。遠くに飯豊(いいで)連峰を臨む山の斜面に建ち、とても見晴らしがいい所でした。このあたりは、水害を避けた丘陵地にあり、大昔の石器・土器が多数出土しています。山の幸、川の幸も豊かで、稲作以前の、言わば梨郷村の古代文明発祥地のような所でした。当然、川を通して広く交易も行われていたことでしょう。そして時代が下がってからは、ここにお寺があったとかで、通称「寺山」と、村の人達は言っていました。その寺が焼失し、周りの民家などもなくなって、すっかり山と原野に戻ってしまっていた所でした。

  私が生まれた時から小学4年生頃まで住んでいた所は、この鉄橋の左側で約1キロメートル上流です。国道の「幸来橋(こうらいばし)」がかかっている、旧舟着場の所でした。その後、洪水を避けて、その近くで山の麓の小高い所に家を建てて引っ越しました。高校時代は、そこから米沢市まで毎日通学していました。片道1時間近くの列車通学です。梨郷駅は卒業した小学校の近くにありましたが、距離にして3キロぐらいあって少し遠い所でした。ところが家の近くの、この鉄橋を渡るとすぐの所に、隣村の「西大塚駅」があるのです。ですから、私の集落と開拓地区の人達は、鉄道を利用する時、自分の村の梨郷駅を使わずに、この鉄橋を渡って、隣村の西大塚駅で乗り降りしていました。国道の幸来橋を渡って西大塚駅に行くとなると、3倍以上遠回りになってしまうので、それも大変でした。元々最上川の両岸には、川人足達が曳き綱で、舟を川上に曳き上げるための、細い通路があったといいます。なにしろ、最上川は日本三大急流の一つですから・・・。しかし、度重なる洪水で流されたり、川そのものも蛇行を繰り返して移動したりで、通路も不要になるに連れて、整備されないまま無くなってしまったのでしょう。というわけで、国道を使って西大塚駅に行くとなると随分遠回りなってしまうのです。

  私も高校に通学するのに毎日、全長300メートル近いこの鉄橋を渡って西大塚駅まで歩いていました。隣村には母の実家があり、親戚も沢山あったので、時々別の高校へ通うイトコ達と顔を合わせることもありました。所で、その鉄橋の上のレールの間には、鉄道保線区作業員が歩くための、幅15センチほどの板二枚がクギで打ち付けてありました。そして保線区作業員用の1.5メートル四方程の退避場が、三箇所設置してありました。私は当時、冬以外は下駄履きで通学していました。秋口、その敷板に霜が付いている早朝などは、よく滑りました。不意に滑ると危ないのですが、意識的にワザと滑って進むと案外平気でした。冬は当然、雪が降り積もってそれが凍り、まるで「馬の背」です。時々滑って足を踏み外したりしていました。そこを体育で使うスキーを担ぎ、除雪のラッセル車を避けて、退避場に走ったりするのです。ちなみに、雪国では、冬季の体育の授業はグランドが使えないので、中学・高校共、全てスキーなのです。ラッセル車は時刻表以外の随時の運行なので、あわてて逃げ込んだ人が何人もヒシメキあっていたことがありました。

  真下は最上川が流れていて、その流れを見ていると、まるで橋が川上に向かって動いているように錯覚するのです。ですから、眼の焦点はなるべく足元の敷板だけに合わせて歩きます。つり橋と違って、手でつかまる所がないのがコワイ。その辺は小さい頃から皆、慣れっこになっていて地元の人は誰でも平気で渡っていました。おそらく田舎ですから、子供の頃は山猿みたいに木登りをしたりして育っていますから、高所恐怖症の人等、誰もいなかったんでしょう。おまけに冬は、つるつる滑るトタン屋根に登って、雪降ろしです。おかげで(?)後の大学生の時分、アッルバイト先のアメリカ人宅では、3・4階の観音開きの窓の外に出て、命綱もなしに平気でブラ下がって、窓ガラスを拭いていました。ベランダではないので、落ちれば間違いなく大変なところです。さすがのアメリカ人もびっくりしていました。

  しかし、親戚の法事などで、地元の人の案内で初めて鉄橋を渡った人は大変です。大人の男性でも目がくらみ、足がスクんでハッテ渡ったなんて話も聞きました。一番問題なのは、時々時刻表に無い貨物列車が突然来ることです。そんな時は、走って退避場に駆け込みます。父の元同僚で、建設省職員の人が、酔って帰る途中、夜中にこの鉄橋を渡ったのです。最終列車の時刻を間違えたのか、臨時列車だったのかでしょう。汽車にヒカれて亡くなりました。私も高校の部活の帰り等、夜の遅い時間にこの鉄橋をよく渡りました。月や星が出ていない時は、押入れの中と同じくらい真っ暗闇です。足元の細い渡り板2枚もよく見えません。しかし目が慣れてくると、それが微かに見えてくるから不思議です。そろそろと用心しながら、まるで忍者です。懐中電灯なんて持っている人も、殆んどいませんでした。まだ電池の性能が充分でなく、長時間持続しなかったのです。そんな時、反対側から人が来てすれ違うのが又大変です。お互いに片脚をレールに乗せて、それに体重を移しながらうまくやり過ごすのです。そこは田舎の人同士、互いに気遣います。

  所で、急に迫り来る汽車に気が付いて、退避場に間に合わず、鉄橋から飛び降りて大ケガをした人もいました。蒸気機関車など、急ブレーキをかけても100メートルは止まれないという話でした。実は、鉄橋の手前は山になっていて見通しが悪く、川向こうや鉄橋の上から見ると、山の間から突然汽車が飛び出してくる様な地形状況になっているのです。ですから、汽笛の音等いつも耳に神経を、集中していなければなりませんでした。後に気動車になると走る音は小さいし、警笛音も小さいし・・・今考えると、ぞっとします。よくぞ無事に生き延びられた、という感じです。本当は、国鉄の保線区作業員以外の一般の人は、いっさい鉄橋を渡ってはイケないことになっていたのです。ですから、国鉄に責任は全くないのです。しかし距離的にそこしか選択肢はないというカンジで、私の集落の人達は利用していたのです。

  それで国鉄の然るべき立場の人も、あきらめて妥協してくれたのでしょう。後には、線路の横に全行程、狭い通路が設けられました。それは、私が上京して後、随分後のことです。それからは、危険を感じることなく、いつでも気軽にこの鉄橋を渡れるようになったのは、言うまでもありません。さぞ皆、国鉄に感謝したことでしょう。

       
                 (2009.7.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.10
★梨郷村では昔、飛行機の燃料を製造し、炭鉱もあった
  写真は、先月号の鉄橋の写真を撮った場所ですが、そこに建っていた家です。梨郷村の開拓地区の入口あたりにありました。私が上京後に、父がこの地に引っ越して家を建てました。かねてから念願の、大きな坪庭も造り、楽しんでいました。将来、裏山の松林の樹が大きくなるにつれて、その借景が期待される所でした。近くでは、キノコやワラビなどがよく採れました。梨郷村の開拓地区は、戦後満州などから引き上げて来た人達が、開墾し入植しました。それまでは多少の畑はあったものの、殆んど原野と山ばかりで、長い間、人は住んでいませんでした。「平野(ひらの)地区」といいます。最上川沿いの比較的なだらかな丘陵地と、山林地帯からなっていました。最上川沿いの旧街道は、周りに木々がうっそうと生い茂り、昼でもヒトケがなく、妖怪が出そうな不気味な所もありました。バスも通っていませんし、冬は雪が降り積もって道も殆んど分からなくなります。道からそれた林の中で、隣村のカップルが心中しました。そこから先にも人家は点在していました。日が短く、真っ暗な夜道を帰宅する時など、そのあたりの子供達はどういう気持でその道を歩いていたか、察するに余りあります。

  中学生の時分、秋の天気のいい日でした。村はずれで学校から最も遠い、この開拓地区の松林で、学校主催の「イモ煮会」がありました。清流があり、時期的に食材のキノコも沢山生えています。松の枯れ枝など燃料も豊富にあり、格好の場所だったのでしょう。先生やPTAを含め、全校生徒300人近くいました。多分、学校が地主に交渉してその場所を借り受けたのでしょう。山林については、旧村民の所有でしたから・・・。山火事にでもなったらそれこそ大変です。先生達もさぞ、気を使ったことでしょう。各自、皮をむいたサトイモとネギなどを持ち寄り、それに豚肉と採れたてのキノコを大ナベに入れて・・・。山形県では、いつの頃からか分かりませんが、河原などで「イモ煮会」を、よくやっていたのです。毎年秋になると、天気のいい日に、地域や職場ぐるみで、大人や子供も一緒になってやっていました。このあたりは、松の生育に、適していたのでしょう。山といえば松林ばかりの所です。そのせいか、戦時中この近くに、「松根油(しょうこんゆ)」を採っていた作業場があったといいます。松根油というのは、その名の通り、松の根っこから採れる油のことです。

  大戦中、ガソリンが不足した日本は、飛行機の燃料にするために、松根油やヒマワリの種から採れる油を利用したといいます。いま流行のバイオ燃料です。戦争末期、敗色濃厚で南方からのガソリンが、手に入らなくなりました。当時の日本としては、苦肉の策だったのでしょう。大きな釜で松の根っこを煮て、油を採ったということです。多分その精製技術も充分なものではなかったのでしょう。飛行機の燃料としては、どうも良質なものではなかったようです。米軍が、捕獲した日本の戦闘機にアメリカの燃料を入れて飛ばしたところ、スゴイ性能を発揮したといいます。日本が戦争に負けた原因の一つに、この辺の所もあったのかも知れません。私が子供の頃、その作業場が廃屋の形で残っていました。又、この平野地区の山では、やはり戦時中まで亜炭(あたん・質の悪い石炭)を掘っていたといいます。昔はエネルギー量の多くを、石炭に依存していました。良質の石炭は、汽船や蒸気機関車、製鉄などにどうしても必要で、採掘量は不足していたのでしょう。当然の結果として、ストーブなどの燃料は、亜炭で間に合わせたのです。実際、戦後でも学校のストーブには亜炭を使っていました。私が子供の頃はもう既に、梨郷村の炭鉱の建物などはありませんでした。全国的には、炭鉱はまだ沢山ありましたので、梨郷村産の石炭は品質があまり良くなかったのでしょう。

  夏、最上川で川遊びをしていると、川底に大きな泥炭をよく見かけました。地中に深ければ、遠い将来に石炭になるかも知れない物です。置賜盆地全体は、太古の昔、大きな沼だったといいます。梨郷村は盆地のヘリの所ですから、その時代は沼の岸部にあったのかもしれません。その時に増水や地震などで、巨木が沢山水没したのでしょう。所で、その炭鉱があったらしい場所ですが、閉山後に落盤で出来たと思われる、大きな穴がポッカリ開いていました。その深い所に、青く見える水がたまっていて、水深も相当ありそうでした。冬、スキーなどでそこを通る時、中に落ちないように気を付けていました。

       
                 (2009.8.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.11
★梨郷村の食文化は、東京とはだいぶ違っていた
   写真は農家の母屋で、父方の祖母の姉の嫁ぎ先です。私と同い年のハトコもいました。通りを隔てた手前に、私が小学4年から上京するまで住んでいた家がありました。そのおばあさんは、最上川の舟着場にあったちょうちん屋の娘で、三姉妹(下に男一人)の長女でした。純農村にあって、商人の娘なので(?)ハイカラで、他の姉妹と共に評判の美人だったということです。その面影は確かに残っていました。そして、よくウチに息抜きに来ていました。髪形といい、五千円札の、樋口一葉みたいな顔をして、当時の農村女性には珍しくタバコをすっていました。そして、私の祖母と違って長生きしました。ちなみに私の祖母は、3人目の子供を生んだ後、産後の肥立ちが悪くて、数え年29歳で亡くなったということです。所で、写真の屋根の上に乗っている小屋みたいなものは、破風(はふ)といって、いわゆる煙出しです。その真下にイロリがあります。かつて一般の農家では、煮炊きは殆んどイロリでやっていました。しかも家族の居間でもあり、簡単な接客もイロリ端でやっていました。その奥には、台所や井戸があり、そこの所は二階が上がっていません。手前二間(けん)の長さの所には、八畳程の二階が上がっています。多い時は、この家に8人が住んでいました。

  私が梨郷村に住んでいた頃、ほぼ100%は農家でした。農家でなくても、私の父のように村の農家出身者で、役所勤めなどをしている人でした。あとは、駐在所のお巡りさんや駅員さんなど転勤で、一時的に梨郷村に住んでいる人達です。国鉄梨郷駅は、奥羽線赤湯駅からの支線(後の長井線)が開通当初、しばらく終着駅でした。そのせいか、小さな村には不釣合いな、大きな青果市場がありました。学校の側だったので、登校前に、威勢のいい掛け声のセリなどを見ていました。大声でフチョウによるやりとりは、まるでケンカをしている様でした。確か「ゲンコ」というのは50円という意味だったと思います。仲買の人等たくさん来ていました。しかし、村には八百屋さんが一軒もありませんでした。もっとも、ほぼ100%農家ですから八百屋さんという商売は、成り立たなかったでしょう。村出身の公務員などは実家のすぐ側ですし、たいてい三ないし五畝程の家庭菜園を持っていました。専業農家と言えども、換金作物の種類はそんなに多くありません。やはり、家の側で毎日の食用に、一箇所に多くの種類の野菜を植えて、家庭菜園をやっていました。それらは大抵、お年寄りの仕事です。ですから昔は、その時期に採れる野菜しか食べていませんでした。しかし今は、車で行けば町のスーパーは近いですし、肉などを買ったついでに、よそで採れた野菜も買っているかも知れません。そういう意味で昔は、野菜に関しては村単位で自給自足でした。

  農業といえば、自然が相手の仕事です。つまり農作物の出来、不出来は、天候に左右されます。昔から「雨乞い」など神頼みの面があり、当然信心深くなります。どの家にも神棚があり、毎日食事の前には必ずご飯などを供え、手を合わせていました。又、農業に関する神事も、年中行事として沢山やっていました。そして、月に一回ぐらいの割で訪れる、農作業(主に稲作)の節目には、必ず餅をついて神棚に供えていました。そのおすそ分けという名目で、あんころ餅やゴマ餅、くるみ餅、ずんだ餅、納豆餅など、何種類も作って食べていました。昔は普段の食事は質素なものです。大変な農作業をやっていく上で、時々ご馳走を食べる事によって体力を養っていたのでしょう。同じくボタ餅も、何種類も作りました。ぼた餅も神棚に供えてはいましたが、どちらかといえば、お彼岸など仏様向けという感じでした。又、「豆名月」「芋名月」というのがあり、それぞれの収穫物を、お月様にお供えしていました。その他、お祝い事があると赤飯を炊き、重箱に入れて親戚に配りました。東京のササゲで炊いた赤飯と違い、小豆の赤飯は色も濃く、とても美味しいものでした。なんでも江戸では侍に気を使うあまり、ウナギの背開き同様、炊くと腹が割れる小豆を避けたのだといいます。

  私が育った頃は、まだ全国的にお米が足りない時代でした。どこの農家でも麦飯を食べていました。真ん中に黒いすじの入った押し麦を半分くらい入ったご飯は、健康にはいいかも知れませんが、あまり美味しいものではありませんでした。同じカテ飯でも、カヤクご飯は美味しくて、よく食べていました。いわゆる五目飯です。その他、薄く切ったさつまいもが入ったご飯や、豆ご飯など、母はいろいろ工夫を凝らして、美味しい食事を作ってくれました。今でも混ぜご飯は好きで、よく食べていますが、そんな時は、子供の頃を思い出します。多分、全国どこの農村でも同じだったかも知れませんが、特に農村では和食しか食べませんでした。梨郷村には食堂などありませんでしたので、中華料理も洋食も、カレー・ライス以外は、殆んど食べたことがありませんでした。小学校の給食で食べるシチューが唯一でした。子供の頃、食器といえば漆塗りの「おわん」でした。もちろん模様などない普段仕様の漆器です。漆器は、ドロドロの油物料理には向きません。洗剤を使ってタワシでゴシゴシというわけにはいきません。お湯ですすいで、指で軽く洗うだけですから・・・。


  梨郷村は、海から遠い盆地内にあります。ですから以前は、干物や、塩漬け、味噌漬け以外、海の魚は殆んど食べられませんでした。日本海側の、山形県唯一(?)の港、酒田は貿易港であり、漁港ではありません。海の魚は、全て宮城県の塩釜あたりから、鉄道で運ばれて来ていました。江戸時代までは、輸送の関係でそれも無理だったでしょうし、あっても高価なものだったでしょう。宮城県産などの、干しアワビ、フカヒレなどは、俵物(たわらもの)と言って、朱印船による日明貿易の頃から、中国に輸出していました。ですから中華料理のその絶品は、昔から日本産の食材にあるのです。それはさておき、梨郷村におけるタンパク源としては、元々フナなど川魚が多く、他にイナゴも食べていました。イナゴはけっこう好きで、今でもデパートで時々買って食べています。又、ドジョウやタニシも、よく食べていました。夏、最上川で川遊びをしながら、よくバケツに沢山ザリガニを採り、それをユデて食べていました。小さいながら、ロブスターの味そのものです。亡くなった父の話によると、戦前まではカイコのサナギも佃煮にして食べていたといいます。養蚕が盛んで、大量に出るカイコのサナギを、鯉のエサだけでなく、人も工夫して食べていたのでしょう。父の話によると、けっこうおいしかったといいます。

  特産の鯉の甘煮(うまに)は高級料理だったので、正月などヨソにお呼ばれした時以外は、滅多に食べられませんでした。昔採れたという鮭も川シジミも、おそらく江戸時代か、明治時代までだったかも知れません。最上川舟着場そばにあった畑からは、昔捨てたと思われるシジミの、白くなった古い貝殻がいっぱい出てきました。しかし今の梨郷村では、東京とあまり変わらない物を食べています。
                        (2009.9.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.12
★梨郷村ならではの、農村中学校の行事
  私が子供の頃、梨郷村のほぼ100%は農家でした。近郷近在に会社などなかったので、兼業農家は、あり得ませんでした。昔の農業は、殆んど機械化されていません。ですから、作業は牛馬と,人手に頼る作業です。当然、今より大人数で、それでも忙しく働いていました。兼業などやっている時間的余裕も全くなかったのです。当然、中学を卒業すると、長男でなくても農業に就く者が多かったのです。その人達の多くは、中学校が最終学歴でした。ちなみに、クラスの三分の一が農業に就き、三分の一が都会に就職し、残りの三分の一が高校に進学という形でした。集団就職などもあって、当時新中卒者は、「金の卵」と、持てはやされていました。ちょうど、高度成長期の走りで、どこもかしこも、慢性的に人手不足だったのです。

  そういう訳で、純農村の梨郷中学校の学校行事や授業も、農村特有のものでした。今では考えられませんが、殆んど農業中心にまわっていました。中学に入ると、必修の農業の授業がありました。他に、選択科目の授業として、農業クラスと英語クラスがありました。進学する者は、英語クラスに入ります。当時の農家の仕事は、ネコの手を借りたいほど忙しく、特に田植えや稲刈りの時期は、年寄りから小学生も含めて一家総出でやっていました。日曜日などは、町に住んでいる親戚まで手伝っていました。牛に馬鍬(まぐわ)を引ひかせてやるシロカキでは、小学生が牛のセコをやっていました。馬鍬を押さえ、土のコナレ具合を調節しているのは、体重のある大人です。耕地面積の多い家では、馬を使っていました。馬は脚が早いので、小学生の脚では、上手く誘導するのは大変です。当然の事ですが、その小学生は一週間くらい学校を休むことになります。中学校には、学校所有の演習林や畑、水田がありました。男子は、雨の日だけ教室で授業を受け、晴れた日は全て実習でした。その時間、女子は家事室で料理や針仕事なんかやってと思います。みんな学校から帰ると農業の手伝いをやっているので、専門の先生なんかよりずっと作業が上手で、大人みたいにカッコよく見えました。

  しかし実際に一番多い作業は、と言うより大部分は、学校の「トイレ汲み」でした。もちろん汲み取りトイレです。中学生の遠足の時、米沢市の中学校で、水洗トイレの見学をしました。その中学校の、中年の女の先生が「臭いがしないのです・・・」などと、わが中学生大勢の前で、説明してくれました。おそらく梨郷中学生の大部分は、その時初めて水洗トイレを見たと思います。ところで梨郷中学校のトイレ汲みですが、二人一組になって、時代劇の篭カキみたいに、肥え桶をサオの真ん中にぶら下げて担ぐのです。授業時間中、学校のトイレと畑にある肥溜め(こえだめ)との往復です。二人で上手くバランスを取って歩かないと、肥桶が揺れて中身がポチャンポチャンはねてきます。しかし、どうしてもズボンに飛び散ってしまいます。その臭いの付いたズボンをそのまま平気ではいていました。その時代は誰もが、替えズボンなど持ってなくて、一年中同じズボンをはいていたからです。そしてやはり平気で、食事をしたりしていました。男の子は、母親に言われなければ手も洗いません。そのうち自然に臭いも消えていき・・・と言っった具合です。今考えると、気持ち悪くなってしまいます。昔は、糞尿は肥料にしていました。いわゆる、自然のサイクルです。ですから生野菜などは、殆んど食べませんでした。それでもトマトやキュウリなど、どうしても生で食べたりするので、人の体内には寄生虫が住み付いていました。時々その駆除剤である「サントニン」という薬を飲まされました。すると、大便と一緒に、ちょうど色も大きさも全くウドン状の、白い回虫が二三匹出てくるのです。

  話が横道にそれてしまいましたが、学校の田んぼの雑草取りなども、よくやりました。冬には田んぼで採れたお米で作った、あんころ餅の試食会がありました。先輩達の頃には、ヤギやニワトリ、ウサギなどの家畜も飼っていたようです。演習林の行事としては、以前紹介しましたが、全校で行う杉苗の植林と「ほうき木」採りです。枝先の柔らかい箒木専用の木があって、針金で束ねて外掃き用にします。竹林が少ない(?)置賜地方では、その代用にしていたのかも知れません。そして、業者を通じ製品にして、売っていたのでしょう。秋は全校生徒で、イナゴ捕りや落穂拾いもやりました。どちらもその日は登校しないで、朝、地区の子供たちが一緒に集まって、午前中だけそれをやり、午後は休みです。イナゴは、肌寒い朝のうちは動きが鈍いので、子供でも容易に捕れました。その頃はまだ、農薬の使用も少なかったのでしょう。田んぼには、イナゴもドジョウもタニシもいっぱいいました(いずれも食用)。イナゴはゆでてから出荷するのですが、大人の人で午前中にイナゴを一升マスに、山盛り一パイは捕れるといっていました。前述の箒木もイナゴも落穂も、全校まとめて生徒会費になるという事でした。


  梨郷小学校と梨郷中学校は廊下でつながっていて、隣り合わせに建っていました。中学校には、広いグランドはなく、体育の時間はもっぱら小学校のグランドを使っていました。小中共、学年2クラスずつしかなかったので、それで充分だったのでしょう。そこで毎年稲刈りが終わると、大人から子供まで村をあげて運動会をやっていました。村民の全部が、自分達が建てた梨郷小中学校出身ですし、全部農家ですからスケジュールもちょうど合います。その日は村中、仕事は休みです。梨郷神社の村祭りと共に、娯楽の少なかった田舎にとって、顔見知りの村民全部が参加する行事は、最大の楽しみでした。現在の梨郷村の半分以上は兼業農家だと思います。過疎と少子化もあって人口も激減しているでしょう。ですから、村をあげての盛大な運動会などやっていないでしょう。それと共に、かつての農村特有の授業や学校行事も、現在はおそらくやっていないと思います。 

       
                 (2009.10.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.13
★旧舟着場の家は、度重なる洪水でも流されなかった
   写真は、梨郷村の山沿いにある農家です。梨郷村は置賜盆地のヘリ近くの田畑と、奥深い山から成り立っています。最上川は、梨郷村付近で再び、そのヘリの山に近づいて来ます。そして、毎年数回、氾濫を繰り返していました。民家はおおむね、たび重なる洪水を避けて、山沿いの小高い所に点在していました。唯一、舟着場だけは、いつも洪水に見舞われていました。私が子供の頃は、かつて父方の祖母の実家だった、旧舟着場に住んでいました。近くでは、いつも最上川の護岸改修工事や、堤防工事をやっていました。最上川は、日本三大急流の一つで、建設省直轄の第一級河川でした。梨郷村の旧舟着場は、山沿いの集落から500メートル以上離れていました。小さい頃は、それがすごく遠く感じて、一人で集落に行くことは滅多にありませんでした。母に頼まれて回覧板を持って行く時だけでした。梨郷村の舟着場は、昔は7・8軒の家や店があって、梨郷村のその辺では、唯一賑わっていた所という事です。鉄道もまだ通っていない頃の、ずいぶん昔の話です。

  私が住んでいた子供の頃は、すっかりさびれて、家が2軒だけになっていました。そこだけ広場のような大通りになっており、通りから50メートル位離れた川面からは、数メートル程高くなっていました。川辺には、水かさを測る目盛りの付いた標識があり、2・3ソウの小舟が、いつもつないでありました。村人が時々、漁をしていたからです。母はよく、泊めてある小舟に乗って、洗濯物をすすいでいました。私の住んでいた家は、祖母の実家で、元ちょうちん屋だった所です。しばらく空き家になっていました。父が結婚を機に、そこに住み始めました。通りの一番奥にありました。土盛りがしてあり、50メートル位離れた隣の家よりは、かなり高い位置にありました。そのせいか、隣は洪水になると必ず床上浸水していましたが、私の家は多少それを避けることが出来ました。大雨が降ってくると、半日後には必ず川の水が溢れ出しました。ですから、洪水の予測は簡単でした。雨の様子を見計らって、急いで戸を全部外し、荷物などを二階に上げるのです。小さい頃、いつもは一階に寝ているのですが、気が付くといつの間にか、二階に寝かされていました。朝起きて外を見ると、まるで大きな湖の中の水上ハウスです。そんな事の繰り返しでした。以前、東京の多摩川が氾濫した時、狛江市の住宅が次々と川に押し流されて行くのを、テレビで見ました。

  しかし、流れがもっと急な筈の梨郷村の旧舟着場では、そんなことは全くありませんでした。家の一階部分は、殆んど柱だけになっているので、洪水の時、一階部分を水が通り抜けるような構造になっていたからです。祖先からの生活の知恵なのでしょう。家が流される事は、ありませんでした。そして、増水量を計算していたのでしょう。二階部分まで浸水する事はありませんでした。私はいつもの事なので、慣れっこになっていてコワイとも何んとも思いませんでした。旧舟着場には、小学四年生まで住んでいました。洪水の時の通学は、朝と帰りに消防団の小舟が送り迎えしてくれました。洪水の後は、赤痢が流行るので気を付けなければならないと、父母などがよく話していました。対岸は「大塚村」ですが、私が物心が付いた頃には、大塚村の舟着場はなくなっていました。しかし、川から少し離れたところに、舟着場との関連で栄えたと思われる町並みがあり、ここには商店や役場・学校・診療所などがあり、大塚村の中心地でした。同村の駅(西大塚)から遠いところなので、鉄道開通以前は、水運の恩恵を受けた場所だったのでしょう。大塚村は梨郷村に比べ、置賜盆地の中心寄りです。山はなく、殆んどが田んぼばかりの所です。従って、平地に関しては梨郷村よりもずっと広く、人口も多い所です。隣村の田んぼを洪水から守るため、後に最上川の対岸に長い堤防が出来ました。

  おかげで(?)人口の少ない私の住む地区は、遊水地状態にされてしまいました。また、その高い堤防のせいで、いつもよく見ていた隣村の学校が見えなくなってしまいました。その学校は、母が子供の頃、通っていたという学校なのです。ですから私は、堤防工事が好きではありませんでした。舟着場の、殆んど人の来なくなった広場のような大通りを、よく三輪車で一人乗り回していました。又、蛇行した川を掘り替えた時の残土による小山の林とか、遊び場所がありました。母からは、いつも「危ないから、川に近づいてはイケナイ」と、言われていました。村の集落から少し離れていたために、小さい頃、集落の子供達と遊ぶ事はありませんでした。遊び相手は犬猫と、二つ下の妹や、隣の四歳上のお姉さんとだけでした。でもそれで満足で、旧舟着場の生活は、とても気に入っていました。しかし、小学校四年生の時、山沿いの集落に引っ越さなければならなくなりました。旧舟着場の二軒は、建設省の用地買収を受け、立ち退きになってしまったのです。川向こうの堤防工事が完成すると、こちら側は洪水の時の遊水地になり、水害が一層ひどくなると予想されたからです。そして今は、旧舟着場の名残は、跡形もなく消えてしまいました。しかし、私にとっては、今だに心のふるさとです。             

                        (2009.11.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.14
★梨郷村は、伊達領の時代は城下町風だった
  NHKの大河ドラマ「天地人」で、上杉領の米沢が出てきましたが、それ以前の長くは伊達領でした。梨郷村付近は、「増田摂津の守」が治めており、梨郷村に居城がありました。「のろし」をつなぐ物見の山城と、最上川近くに館(たて)がありました。多分、最上川による舟での外敵の侵入を見張っていたか、川の通行税などを徴収していたのでしょう。なにしろ最上川は、酒田まで山形県をほぼ縦断していて、鉄道が通るまでは物資輸送の大動脈でしたから・・・。私が子供の頃は、小高い館跡(たてあと)の土盛りの上が、畑になってまだ残っていました。その時代が梨郷村としては一番栄えていたと思います。まつわる史跡も、残っています。上杉の時代になると、下級武士達の開墾入植地になり、農村だけの状態になりました。伊達の時代は、「梨郷」の後に「村」の字が付かなかったのかも知れません。その城下町風のなごりで、酒町・上町・粡町(あらまち)などの地名が残っています。ですから、住所の梨郷村の次に、字(あざ)として酒町や上町などが、続いていました。子供の頃、村なのに町名の付いた地名があるのが不思議でなりませんでした。現在のコンビニも食堂もない無医村からは、とても想像も出来ません。なにしろ現在、旧梨郷村に商店街は存在してないのですから・・・。

  後の上杉藩の時代になると、前述のように梨郷村の梨郷地区山間部は下級武士達の開墾入植地になりました。そして、梨郷の城を守っていた伊達の武士達が、国替えで引き払った後、郷士としてそこに住みついたのでしょう。その居住密集地も残っています。「関が原」以降、外様大名の上杉藩は、国替えで小藩になってしまいました。景勝一代の間に、120万石から30万石に減らされてしまいました。それまで、家老直江兼続の領地であった米沢領を、上杉藩主として引き継いだのです。そこに、家族を入れると2万人の士族が移り住んだといいます。当然、財政的にひっ迫しました。一時は上杉藩知行地を、幕府に返上しようというところまで追い詰められたといいます。家臣の禄高を半分以下にしても足りず、多くの下級武士達が山地を開墾して、農民同然の郷士になりました。私の祖先も、その中の一員だったのでしょう。そして、長い間に出来た、佐藤家の分家も多く存在しています。しかし、伊達家臣・増田家の城下だった時と比べると、やはりサビレてしまったのでしょう。まわりの村々と比べても、おくれた村というカンジになってしまいました。

  梨郷村は、近所では何代か前までサカノボれば、殆んどの人が親戚みたいなものでした。見合い結婚ですと、隣村から来たりするのですが、恋愛結婚の場合、職住接近の農村では、子供の頃から気心が知れている幼馴染、ということになってしまうからです。住人の移動の少ない地方では、ややもすると、そのことがイトコ同士の結婚につながったりして、地域に全くの他人同士というのが少なくなってしまいます。自然と、血が濃くなって、親戚ばかりのようになってしまうのです。そして私が子供の頃、梨郷村では表札のある家など、まずありませんでした。誰が住んでいるか皆、知っているからです。昼間、玄関に鍵もかけませんでした。それでもドロボウに入られた、なんて話は聞いたことがありませんでした。(最近では、納屋の出荷前のお米も、畑の農作物さえも大量に狙われてしまいます。)ポストもないので、郵便屋さんは、留守宅の玄関に勝手に入り、郵便物を置いて帰りました。その郵便屋さんも、村出身者だったりするのです。「五人組」というのがまだ存在していて、葬式等は悲嘆にくれる家族に代わって、五人組の人達が全部やってくれました。「勝手知ったる他人の家」とかいいますが、客用の漆塗りのお椀とか、お膳のしまい場所などは、近所のおばさんが全部知っていました。以前に、そのおばさん達が洗ってしまい込んだものだからです。しかし、そのおばさん達の名前を、私は殆んど知りませんでした。

  農村では、男性の名前は呼ばれることはあっても、嫁さんや姑さん等は、名前で呼ばれる事はなかったからです。子供の頃は、女の子も名前で呼ばれていました。しかし結婚している女性は「誰それの」お嫁さんとか、「ハタヤの」おばさんになってしまって、固有名詞で呼ばれることはなくなってしまうのです。知らなくても済むし、耳にしたことがなかったので、知りませんでした。逆にヨソの嫁さんを「ヒロコさん」等と、名前で呼んだりすると、「なれなれしい、何かあやしい・・・」ということになってしまうのかも知れません。梨郷村は、観光地でないせいもあって、ヨソから親戚以外の人が来ることは、めったにありませんでした。物乞いや、押し売りなど、よそ者が来ると、すぐ分かります。畑で農作業している人が、どこにでもいるからです。他に外から来る人といえば、いつも定期的にやって来る行商の人達です。乗用車等なかった時代、隣町までは遠いし、農家の人は忙しいので、リヤカーを引いてやって来る魚屋のおばさんや、豆腐屋さん、富山の置薬屋さん等、重宝していました。そして親しく付き合っていました。冷蔵庫もない時代、魚等はもっぱら干物や味噌漬・塩漬の類でした。

  時々、押し売り風の人もやって来ました。いい大人が学生服を着て、「苦学生で、アルバイトしている」等と言って、決まってゴムひもを売りに来るのです。多分ゴムひもは軽いし、腐らないし手軽で扱いやすかったのでしょう。又、農家の主婦等、洋服を手作りする事が多かったので、よく売れたのでしょう。しかし、アルバイトの大学生にしては、年とって見えたし、一番近い山形大学だって、汽車で一時間以上もかかるのです。ですから、ウソも見え見えで、誰も大学生だと思っている人はいませんでした。

       
                 (2009.12.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.15
★梨郷村の野生動物の多くを、見たことはなかった
  都会の皆さんは、この写真の家を見て、何か特徴があると思いませんか?屋根が重厚で、立派だとは思いませんか。この建物は、お寺ではありません。先月号の写真の家同様、梨郷村によくある農家です。農家は広い屋敷に、幾つかの納屋と土蔵を備えています。たいてい母屋だけでも、建坪にして50坪以上はあると思います。というのも農村では、結婚式や葬式や法事も全て自宅で行うからです。田舎では付き合いが広く、特に葬式には大人数の人が来ます。八畳間三つくらいを、間仕切りの引き戸やフスマを取り払って、大きな部屋を確保して行います。又、梨郷村には、ホテルや宿屋などありません。ですから、そんな時や、お盆・正月の折には、遠くから訪れた親戚の人など、多数泊めなければなりません。それはさておき、実はこれらの家は、元々は萱葺(かやぶき)屋根の家なのです。屋根に厚みがあるのは、萱葺屋根にトタン板をかぶせてあるからです。萱葺屋根は、現在では葺き替えが難しく、それに火事による類焼に弱いのです。萱葺屋根が燃える時、火の粉がたくさん飛びます。そして、それが風に乗って遠くまで飛んで行きます。その火の粉が別の萱葺屋根に付くと、防ぐ間もなく燃えてしまいます。そういった訳で、萱葺屋根にトタン板をかぶせるのが、私の上京後に流行ってきました。梨郷村は、山沿いの豪雪地帯にあります。古い家の柱は30センチ位と太く、頑丈に出来ていて100年以上は持ちます。ですから、不便な所は改修を加えながら、数代にわたって大切に住んでいるのです。

  私が梨郷村に住んでいた頃、自然豊かな梨郷村には、多くの野生動物が棲(す)んでいました。多分今でも、人の入らなくなった山奥などには、数多く棲んでいると思います。しかし、私は彼らの殆んどを、見たことがありませんでした。野生動物は用心深いので、彼らから見えていても、人間の目からは届かない所にいるからです。真冬の寒の時期の早朝、降り積もった雪が凍って硬くなり、道以外の所でも、どこでも歩けるようになります。自転車で走れるくらいです。ですから朝、皆と登校する時、道路でない所もよく歩いていました。その硬くなった雪の上に、薄っすらと新雪が降り積もったりします。そのあっちこっちに、沢山の足跡がありました。野うさぎが走り回った跡です。しかし、私は捕まえた野うさぎさえ、見たことはありませんでした。初夏の頃だろうか、旧舟着場に住んでいた頃、毎朝カッコウの鳴き声が、あたりに響いていました。しかし、カッコウがどんな形の鳥なのか知りませんでした。真夜中に鳴き声をよく聞く、ヨタカという鳥もフクロウも実際に見たことはありませんでした。人里近くに棲むキツネもイタチも、ニワトリの被害で気付いても、実物を実際に見たことはありませんでした。

  昼間外で遊んでいると、時折大きな猟銃の音がしていました。そして、撃ち落としたキジなどの、獲物を見たことがありました。私はあまり山奥まで入ったことがないので、キジを見た時、梨郷村の山に、そんな大きい鳥が棲んでいるとは思いませんでした。母の実家のお父さんも、二連発式の大きな猟銃を持っていました。田んぼの多い田舎でよく見かけるのはスズメでした。そして、農家の人の、目のカタキにされていました。カーバイトを使った仕掛けで、時々「ドカーン!」と、大きな音をさせて、追い払っていました。お盆に訪れた都会の人など、知らずに側を通ると、腰を抜かすでしょう。それから、カカシと共に、カラスの死骸を竿の先にぶら下げていました。カラスはスズメにとって、恐ろしい天敵だからです。しかし、そのカラスをどうやって捕まえたのか、又は拾ってきたのか不思議でした。東京と違って梨郷村では、圧倒的に多い鳥はスズメで、カラスは多くありませんでした。夕暮れ時などに、五・六羽で遠くの空を飛んでいるのを見かける程度でした。しかしそこは田舎の人、山仕事をしながら、カラスの巣とか棲息場所を知っていて、うまく捕まえたのでしょう。

  農村では、スズメ以上に多いのは、ネズミの被害です。対策の一つとして、農家では必ず猫を飼っています。ペットではなく、仕事をする猫です。昼間は殆んど寝てばかりいますが、夜はよくネズミを捕ります。与えられるエサといえば、猫マンマだけです。彼らは本来肉食動物です。肉であるネズミを食べないと、健康が保てないのでしょう。そして母猫から、生肉の美味しさと共に、狩の仕方を教わっているからでしょう。梨郷村は、元々養蚕農家の村です。ネズミからカイコの被害を防ぐためにも、猫を飼っていました。猫と共に人家やその周辺に棲みついて、よくネズミを捕るのが、ヌシ(主)と言われる「青大将」です。屋敷の広い、大きな農家にしか棲んでいません。その成体は2メートル前後あり、人畜には無害(鶏卵を狙うことはある)なので、農家の人が愛着(?)と畏敬の念を持って名付けたのでしょう。げっ歯類のネズミは、エサとしての食料だけでなく、何でもカジリます。家中の柱や家具などをカジリまくり、萱葺屋根もカジって巣を作ります。アオダイショウは、猫の入り込めない藁の中でもネズミを捕りますし、萱葺屋根の天井裏・床下と、ネズミのいる所は、どこへでも入れるのです。つまり、萱葺屋根の家をネズミの被害から防いでいる、守り神みたいなモノでもあるのです。いつも広い屋敷のどこかにいても、見かけることは殆んどありません。長生きするので、お父さんが子供の頃偶然見かけたのと、同じアオダイショウかも知れません。

       
                 (2010.1.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.16
★雪国梨郷村の正月は、神と共にあった
  私が子供の頃、純農村梨郷村の正月は、お盆や七夕同様、旧暦で行っていました。しかし都会では、太陽暦のカレンダー通り、新暦で行っていたと思います。正月に太陰暦の「高島コヨミ」を一冊買い、それによって一年間の農作業や、生活の計画を立てたりしていました。種まきの時期や田植えの時期、収穫の時期などでです。又、運勢とか神事にまつわる事も書いてあるので、大切な物事を行う際の日時とか方角などを、そのコヨミによって決めていました。農業というのは、収穫など天候に大きく左右されます。ですから雨乞いなど、農民はおのずから信心深くなりました。

  旧暦の正月は、新暦の二月に当たります。特に雪が多く、最も寒い時期に当たります。雪国の朝は、朝飯前に隣の家までの道を付けることから始まります。朝まで降った新雪が、道路の上にも深く積もっています。ですから、通行のための道を付けます。脚の長さ位いで、太い藁沓(わらぐつ)状のモノを履いて、雪を踏み固めながら隣家の前まで進みます。その大きな藁沓には、各々の外側に、縄の手さげ状の持ち手が付いています。それで脚と共に、藁沓を交互に持ち上げながら、ゆっくり前に進みます。そんな時のお父さんは、たいてい寒さよけのホウカムリをして、降雪よけの笠と蓑(みの)を着けていました。農村なので、隣の家までの距離がかなりあります。先ず自分の家の玄関から村道に出るまでの、私道の長さが結構あり、その上に隣家まで村道100メートル以上も、道を付けなければならないのです。沿道の全ての家でそれをやる事によって、子供の通学など可能になるのです。地域のことは全て自分達でやる。元々自給自足の、農村の精神です。もっと早い時間に通る人は、カンジキかスキーを履いて通るしかありません。雪が積もると道路の場所が分からなくなるので、道路の両側所々には予め、目印の長い木の枝を刺しておきます。そんな訳で、村道は人一人が歩ける程度の細い道になってしまいます。自家用車など殆んどない時代ですから、それで充分でした。

  国道はバスが通るので、ブルトーザーで雪を払いました。そして、アイスバーン状態になっていました。一時間か二時間に一往復のバス以外、車は殆んど通らないので、その上でよくスケートをやっていました。というのも、池や沼は、氷の上に雪が深く積もるために、スケートが出来ないからです。スケートも鍛冶屋さんが作ったものです。サビ止めにコールタールが塗ってあるもので、ゴム長靴に革バンドか縄で固定していました。路面がタイヤ・チェーンのために凸凹していて、滑り心地はもう一つでした。その国道も、年によっては雪が降り過ぎて除雪が不可能になり、細い道だけになってしまうことがしばしばでした。そして、一冬中バスが不通になってしまう事もよくありました。そんなこともあって、昔は急流で凍らない川が、しばしば唯一の交通手段だったのです。それで、NHKの朝ドラ「おしん」でも、真冬の最上川をでイカダで下るシーンが出てくる訳です。鉄道も、終夜ラッセル車が除雪を繰り返していました。線路に雪が積もり過ぎると、ラッセル車も通行不能になり、人海戦術で、スコップで除雪するしかテがなくなるのです。そんな雪の降りしきる晩は、積雪の重さで家がミシミシ不気味な音がして来ます。慌てて雪降ろしのために屋根に登ります。その挙句が、つるつる滑るトタン屋根から落ちて亡くなったり・・・雪国で暮らすのは、まさに命がけです。

  ハナシがすっかり横道にそれてしまいましたが、梨郷村の正月の話題に戻ります。正月前後は、農家にとって雪降ろしや藁仕事はあるものの、他の季節に比べると、多少は骨休めの時期になります。ですから長い正月行事となりました。まず、暮(くれ)に障子を張替えると共に、すす払いと大掃除をして、正月の準備をします。正月中に食べる餅を何臼もつき、納豆を寝せます。「寝せる」というのは、藁づとに入れた煮豆を、炭火のアンカと共に蒲団に寝かせ、発酵させて作るからです。餅をつく日も納豆を寝せる日も決まっていました。そして、正月中に食べる料理と、接客用のご馳走を沢山作り置きします。農家では、どこの家でも(?)、当時厳しく禁止されていたドブロク、つまり密造酒を作って正月中飲んでいました。見つかると、罪になります。実は、役人であった亡父も内緒で作っていました。そして、嬉しそうにニコニコしながら、ドンブリ一杯のドブロクを、冬中毎晩飲んでいました。甘酒のように、ご飯粒がいっぱい入っているのです。私の知る限りでは、それで警察に捕まったという話は、聞いたことがありませんでした。農家の人達は、百の職業(百姓)の通り器用で、何でも出来るのです。他に準備としては、、二段重ねの取り餅を、神棚やイロリ・井戸・雪隠(せっちん)等、神が宿るとされる所に全て供え、大きい鏡餅を床の間に供えました。そして、山から門松にする松の木を採取して来ます。枝が三段(又は五段)になった小ぶりの松の木を使います。そして、大晦日に玄関ほか数箇所に設置して魔除けとします。

  元日は朝早く起きて、一家の主人が「若水」を汲み、家族の無病息災を祈願してお茶を立てます。朝食は、家族そろって挨拶してから、雑煮をいただきます。イロリの隅で、餅に軽く焼き目を付けてから、醤油仕立ての具入りすまし汁に入れて、一煮立てさせます。正月は原則として、暮に作り置きした料理や角餅を食べ、ご飯は食べません。たいていは、イロリや火鉢で焼いた餅に納豆を付けたり、熱湯で戻した餅に甘いキナコを付けたりして食べます。子供たちは、お年玉を貰います。しかし、悲しい事に店がないので、地元では使う場所がないのです。それで、父に隣町(宮内町)の熊野大社に初詣に連れて行ってもらったりしました。今も当時も、信仰心皆無の私ですが、なにしろ田舎者なので、町へ行きたくてしょうがないのです。宮内町には、映画館が二つもありました。由緒ある、日本三大社の一つの門前町として栄え、特別列車で県外からも参拝に来ていました。正月二日目の晩は、折り紙で舟を折り、枕の下に入れて寝ました。いい初夢を見るためです。正月は、よく母の実家へ何日も泊り込みで行きました。近くには母方の親戚の家が沢山あり、同じ年頃のイトコ達が沢山いて、梨郷村で遊ぶよりも楽しいものでした。そして、お年玉をを貰うと共に、ご馳走が食べられました。運がよければ、当時最高のご馳走である、鯉の甘煮(うまに)が、食べられるのです。

  鯉(こい)は骨が硬くて鋭く、子供がよくノドに骨をに引っ掛けます。私の地方では、重曹を入れて煮込み、骨まで軟らかくして食べやすくしていました(上野松坂屋の地下で、時々実演販売しているものは、骨が硬いまんまなので、慎重に食べないとイケない)。お父さん達は、年始回りで、この時とばかり、正月中酒浸りでした。やっぱりドブロクですが、接客用のは品よく布でこした白酒で、燗をして出しました。女の人たちは、当時は酒を飲む訳にいかかったので、自分達で作った甘酒を温め、親しい者同士で飲み喰いしていました。寒いので、お餅など、凍ってはイケないものは、フトンをかけて押入れに入れていました。又、どこの家でもイロリの横に穴倉を作っていました。イロリの側の床板を何枚か外すと、深さ1メートル以上の竪穴が、現れます。もちろんネズミなど入らないようになっていました。そこに食料や、凍ってはイケない芋などを入れていました。ちなみに種芋などは、凍っては発芽しなくなるので、地区共同の大きな横穴の奥に保存していました。正月が終わると、果樹のセンテイや、田んぼのタイ肥運びなど忙しくなってきます。農家の大人にとって、束の間の骨休みという感じで、15日位はのんびりと、正月休みを取っていました。出稼ぎなどは、貧しい家の人以外行きませんでした。

  梨郷村は寒冷地の豪雪地帯なので、小中学校は、正月休みの他に、「寒休み」というのがありました。その代わりに、夏休みがその分少なくなるのです。雪国というのは、いつも空がドンヨリ曇っていて、すぐに雪が降ってきます。子供たちは殆んど家の中でコタツに入り込み、マンガを読んだりして過ごしていました。家のノキ下まで雪があるので、室内は暗く、電灯はいつもつけっぱなしでした。寒いし、気持ちも自然と暗くなります。快晴の日なんて、滅多にありません。待ちこがれた晴れの日は、いっせいに表に出て遊びました。凧揚げ、スキーなどです。どの子供の顔も、シモヤケでホッペタがリンゴみたいに真っ赤でした。節分用の豆みたいに炒った大豆を、ポケットにそのまま入れて、おやつ代わりにポリポリ食べながら遊んでいました。ゴム長靴の底には、藁をたたみ入れ込んで、中の湿り除けにしていました。スキーは踵が上がる距離用・軍用タイプで、革バンドや縄でゴム長靴に固定していました。本格的なスポーツタイプのスキーを履いたのは、高校に入学して体育の授業の時からでした。

       
                 (2010.2.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.17
★雪国梨郷村の服装は、着物にタッツケ袴
  写真は、私が上京するまで住んでいた近所の家です。最上川沿いの旧街道で、長井市に通じています。その途中の伊佐沢村には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が植えたと伝えられる「久保の桜」があります。又、隣村の大塚村には、後三年の役で知られる、陸奥の守・源義家ゆかりの地があります。ですから彼らは、この街道を通ったに違いありません。しかし私が住んでいた頃は、別に新しい国道が通っており、この道路は村道に格下げされていました。険しい山の中を通る、この細い道路は、地元の人達が長井市へ抜ける近道として利用していました。由緒ある伊佐沢村は、鉄道から外れたために、サビレてしまいました。この道路の先に開拓地区があり、村境となります。その先が伊佐沢村です。そのあたりは積雪量が多く、人家はないので冬は誰も通らなくなります。それぞれの村は、閉ざされ孤立してしまいます。それを結ぶ唯一の交通手段は最上川だったのです。しかし昔は村単位、自給自足に近い状態ですから、一歩も村の外に出なくても暮らせたのです。村役場には、保健婦さんがいて、時々家々を回って歩いていましたし、小学校の養護教諭の先生も、子供たちの健康に目を光らせていました。又、富山の置き薬も全ての家にありました。ですから、緊急の場合を除いて、無医村でも困ることはありませんでした。ちなみに、近郷近在で無医村は、梨郷村だけでした。

  私が小学生の頃までは、バス以外の車は殆んど通らない時代です。モーターバイクの後ろに大きな荷台の付いた、オート三輪車が出始めた頃です。梨郷村には、野菜市場に5tトラックが一台あるだけで、消防車も放水用のモーターは付いていましたが、大勢で引っ張って走るもので、自動車ではありませんでした。行商の魚屋さんなどは、雪道をソリを引いて来ましたし、大きな荷物の運搬は馬ソリを使っていました。一度、母の実家近くで、トテ馬車風の馬ソリを見たことがあります。馬ソリの上に小型の乗り合いバスみたいなものが乗っかっていました。農村の殆んどの大人の男性は普段、着物に兵児帯(へこおび)を締めて、タッツケをはいていました。タッツケというのは、カルサン袴とも言います。裾口(すそぐち)をクルブシの所で、幾分細く絞り込んだ袴で、ボンタン・ズボンをさらに幅広にしたようなスタイルです。(山形のは、時代劇のそれと違って、スネをヒモで結びませんでした)中世期、ポルトガルの宣教師達がはいていたズボンに似せて作ったということです。吹雪の多い雪国の着物には必需品で、男女共よそ行きにもなりました。冬はその上に、マントを羽織っていました。冬以外の農作業の時は、男性は(シャツの上に)藍染の腹掛けをして、やはり藍染の股引(モモヒキ)をはき、その上にハンテン状の野良着を着て、腰をヒモで縛っていました。ちょうど正月の獅子舞の時の様な姿です。藍染は野外で、虫除けにもなるという事でした。昔は、農家の人のみならず、大工さんも職人さんも魚屋さんも働く人は皆、こんなカッコウをしていました。いわば、昔の仕事着です。柔道着も、一部それを流用したものかも知れません。結婚式や、葬式、法事などに臨席の際は、大人の男女共、紋付の黒い着物と羽織を着て、男性は袴をはいていました。マントは、洋風のものと、袖(?)の付いたトンビがありました。

  小学生低学年の頃は、常時着物で登校する子もいました。特に風邪を引いた時などは、綿入れの着物にタッツケの子が多くなりました。子供の着物は兵児帯は使わず、両前身頃の襟に縫い付けた紐の一方を、八つ口から通して後ろで結びます。家の近くで遊んでいる時の子供は、よけい着物タッツケ姿が多くなりました。又、女の先生は着物で授業をしている先生もいました(もちろん冬は、タッツケをはいて)。男の先生に、普段の着物姿はいませんでしたが、式典の時など校長先生は、時々紋付羽織袴でした。殆んどの子供たちは、冬中綿入れのハンテンを着て、授業を受けていました。着物の上には勿論ですが、学生服の上にも着ていました。通学時は、その上にマントを着て、フードをかぶっていました。ハンテンの柄は、茶色の縞(しま)模様か紺ガスリでした。左側の裏、腰のあたりに、内ポケットが付いていました。当時、農村のお母さん達は、誰でも着物が縫えました。毎年打ち直して、ホカホカの綿が入ったハンテンを、一日中着ていました。足もとは、私が小学校に上がる頃は、ようやくゴム長靴が出始めた頃でした。学校に専門の人が来て、生徒の長靴全部に、各自の名前を書いてくれました。そして、穴が開いたものは、自転車屋さんが学校で、まとめて修理してくれました。自転車のチューブで穴をふさいでもらって、大切に履いていました。家の近所では、まだ時々藁沓(わらぐつ)も履いていました。ちなみに、冬以外は、藁草履(わらぞうり)か下駄で、間もなくゴム草履が出来て、とても便利になりました。藁草履は、しょっちゅう作らなければイケなかったからです。


  冬の梨郷村は、とても寒いもので、寒(かん)の時期に入ると気温マイナス10℃以下の朝が何日かあります。昔の家にアルミサッシ等ありません。木枠に障子の、窓や玄関の引き戸と板戸です。吹雪の時など、風で窓がガタガタ音がして、隙間風と多少の雪が吹き込みます。イロリのある部屋でも気温0℃だったりしていました。石油ストーブは、まだありませんので、コタツのない座敷・勉強部屋などは、暖房は火鉢だけです。寝る時は部屋全体の暖房はなく、吐く息が白く見える寒い部屋です。フトンの中の、炭火のアンカだけでした。ですからフトンをかぶって寝ていました。そうすると、とても暖かく気持ちいいのです。しかし、夜中にトイレに起きる時が大変です。外の汲み取りトイレです。屋敷内で井戸とトイレとの距離を保つ関係上、どうしても外になります。それまでフトンの中で、かいまき状にかけていたドテラを着込んで、吹雪の(?)外に出て行きます。旧舟着場に住んでいる時は、玄関から30メートルくらい離れていて大変でした。街灯もなく、雪明りだけです。誰が言ったか、雪隠(せっちん)とは、よく言ったものです。ですから雪国では、大の方は我慢に我慢を重ねてからトイレに飛び込み、短時間で一挙に出して来ます。「出した!」という爽快感はあるものの、当然便秘を招き、お尻の病気が多くなります。

  現在はどうか分かりませんが、雪国の冬は停電が多くなりました。電線に着雪し、その重さで電線が切れてしまうのです。その度に、ランプやカンテラをつけました。ランプは、当時は灯油など使っていませんでしたので、菜種油だったのでしょう。使っていると、ガラスのホヤの中にススが付き、明るくなくなります。そのホヤ中に手を入れて、布で磨いてススを拭き取るのですが、それが子供の手じゃないと入りません。それに私の家では井戸にダルマポンプを付けていました。その中の水が夜間に凍ってしまうと、翌日水が使えなくなってしまいます。夜寝る前に、ポンプの中に手を突っ込んで弁を起こし、ポンプとパイプの中の水を井戸に落とすのです(井戸は凍りません)。両方とも子供の小さい手を利用して、私の仕事でした。都会の子供のお手伝いといえば、マンション一階のポストから新聞を取ってくる、ぐらいのものでしょうが、田舎の子供はいろいろとやっていました。農作業で忙しい大人に代わって、ウサギやニワトリ・ヤギなど、小動物の餌やりと世話は、どこでも子供の仕事でした。ちなみに私の家では、旧舟着場に住んでいた時(山沿いに引っ越してからも)、ヤギを飼っていました。子ヤギの頃、シッポに噛み付いている犬から守ってやった事もあり、私によくなついていました。死んだ時はとても悲しい思いをしました。

  これはあくまでも、私が小学三学年生の頃までの話で、その後は時代の変化が速く、あっという間に様子も変わってしまいました。

       
                 (2010.3.7記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.18
★隣村の桜は 、坂上田村麻呂が植えたという
  山形県の桜は、東京の約一箇月遅れで咲きます。ですから、五月連休の桜に因んだイベントの時には、花は殆んど散っています。つまり、桜の花がない「桜祭り」です。梨郷村には、沢山の桜の木があります。その殆んどは、自生している山桜です。自然いっぱいの梨郷村に公園などないので、植樹したものとしては、小学校の校庭のモノくらいです。雑木林の木々は定期的に伐採し、炭などに利用されるので、大木はあまり残っていません。桜の木は、若木の皮がきれいで、使い込むほど光沢を増すので、皮細工や道具の柄(え)などに利用されるものの、木材としての利用価値はあまりありません。大木として残っているモノは、どこでも記念樹として植えられたものです。梨郷小学校の桜の木は、十本以上あります。百年ほど前、村民によって学校が建てられた際に、記念して植えられたものでしょう。ところで、先月号で触れましたが、最上川下流の隣村に、由緒ある伊佐沢村があります。鉄道から外れたためにサビれてしまいました。その伊佐沢村には、梨郷村や大塚村にはない、入院設備のある病院がありました。ちなみに、私もそこで生まれたということです。

  さらに伊佐沢村には、県内随一又は東北随一の古木と言われる桜の巨木があります。「久保の桜」と言われ、千年ぐらい前に、征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が植えたと伝えられています(後年、別の人が植えたという説もある)。坂上田村麻呂が蝦夷の討伐に赴く途中、伊佐沢村に逗留(とうりゅう)したということです。その際、土地の豪族・久保氏の娘「お玉」と知り合ったということです。やがて、蝦夷の反乱を平定した田村麻呂は、都に帰ります。そして政争に巻き込まれるなど、多忙だったようです。一方、久保氏の姫・お玉は田村麻呂を想うあまり、病気になって亡くなったということです。その事を伝え聞いた田村麻呂は、お玉を偲んで桜を植えさせたという事です。ということなんですが、なんだか話がうまく出来過ぎているような気もします。帰化人の子孫といわれる坂上田村麻呂は、武人として優れた人で、出世の階段を上り詰めた人のようです。又、投降した敵を許すなど、度量のある人格者だったようです。同時代の菅原道真に並び称される程の人物で、人望があったということです。妖怪を退治したとか、全国各地に伝説が残っていて、中には坂上田村麻呂が行ったと思えない所にも、伝説として残っているということです。

  全国に残る「弘法大師伝説」と同じようなものかも知れません。訳の分からないスゴイ人がいると、「あの人はきっと、伝え聞く弘法大師様に違いない・・・」ということです。そういえば、梨郷村の私の住む地区に「ベンケイブチ」という農業用水池がありました。ひょっとしたら、「弁慶淵」かも知れません。義経に従って鎌倉から奥州に逃がれて来た弁慶は、武蔵坊というぐらいですから元々坊さんです。弘法大師とは行かないまでも、布教目的の土木技術などの学問は、修めていたかも知れません。所でお玉は、雪国特有の色白の美人だったのでしょう。政略結婚の多い当時、コシ入れ前の姫といえば、十五・六歳だったかも知れませんし、それ以下だったかも知れません。それに対して田村麻呂が征夷大将軍になったのは四十歳ぐらいです。貴族出身でイケメンの武人だったにしても、人生50年の当時としては初老の男性です。若い娘が恋焦がれるような恋愛が、果たして成り立つでしょうか・・・まるで女子高生と中年のお父さんです。まして田村麻呂は、これから赴く蝦夷討伐という大任を帯び、数千・数万の兵を束ねる征夷大将軍としての責任ある立場です。恋が芽生える程の、長期滞在は明らかにムリだったと思われます。この種の話は、受け継がれてきた庶民の伝承です。だいたい言い伝えというのは、話し手の願望とか、脚色が少しずつ入り混じって、数百年も経つうちに、話がまるっきり変ってしまったとしても不思議はありません。お玉は、偶然別の原因で、亡くなったのかも知れませんし、それを話し上手の人が、コジつけた話かもしれません。旧伊佐沢村の皆さん、「久保の桜」伝説を信じる方がおられましたら、勝手な夢のない憶測でゴメンナサイ!

  梨郷村の別方向の隣村に、旧漆山村(うるしやまむら)という所があり、「夕鶴の里」といわれています。あの物語もなんだかガテンの行かない話です。鶴の羽根でどうやって布が織れるんでしょうか・・・。今、鶴が娘に化けるなんて思っている人は、誰もいません。しかし、私が子供の頃は、キツネに化かされたという話はよく聞きました。母など大人も実際、そんな話を信じている風でした。だいたい村々には、「口寄せ」と言われる霊感のある処女の(?)お婆さんがいて、商売繁盛していました。つまり、霊媒師です。お彼岸の時など、その人を通じてご先祖様など、亡くなった人を呼び出し、「お告げ」を聞いていました。昔はそんな事は、当たり前のことでした。そう思いたいというのもあるでしょうし、そういう事にしておこうという事もあるかも知れません。そうしないと、神も仏も全く存在しなくなって、坊さんも神父さんも要らなくなってしまいます。真に強い人に、神は要らないのです。神様がいて欲しいと思う人がいる限り、神様は存在するのです。所で夕鶴ですが、人買いなどから逃げてきた娘が、お爺さんがワナにかかった鶴を助けたのを知って、ふと思いついた事かも知れません。寒い雪の中、空腹で寝る所もなく困っていたのかも知れません。そして、ハタオリが得意なところから思いついた事かも知れません。その話に尾ヒレが付いて出来たのが「夕鶴」かも知れません。

  冬中深い雪に閉ざされ、隣に行くのも不便な田舎です。昼なお薄暗い部屋の中で、人々は想像をたくましくして、退屈する子供たちに話して聞かせたのでしょう。そして次の世代へと受け継がれていったのでしょう。本当の話もあったでしょうし、空想の話もあったでしょう。いわゆる、「日本昔話」です。昔は全国各地に鶴が渡って来たといいます。鶴の付く地名が沢山あります。同じ山形県にも鶴岡という所があります。きっと鶴が来ていたのでしょう。そして梨郷村にも、鶴が来ていたかも知れません。私の家では、漆山村の羽付(はねつき)という所に親戚があり、子供の頃母親とよく行きました。羽付という地名にしても、夕鶴にちなんでいるのでしょう。 それにしても、夕鶴を演じる人達の言葉は、どうしてナマっていないのでしょう。昔の事ですから、あの「スウィングガールズ」よりも、もっと徹底的にズーズー弁でナマっていて然るべき・・・。                   

       
                 (2010.4.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.19
★最上川の改修工事をめぐる、隣村との争い
  最上川をはさんで、梨郷村と大塚村では、言葉づかいが微妙に違っていました。昔は、間に橋がありません。どちらも自給自足同然の農村ですから、全て自分の村で事足り、行き来する事も少なかったからでしょう。例えば、大塚村や長井市では、相手に、「ニシャ」と呼びかけます。しかし、私の村や南陽市では、そうは言いません。私には、乱暴な言葉に聞こえました。母もそれを意識していたらしく、大塚村の実家付近では使っていましたが、梨郷村では言いませんでした。東北の人は、言葉の発音を簡略化します。例えば、「ケー、クー」は、「喰え、喰う」に当たります。それに訛(なま)りが加わります。ですから、「ニシャ」は、「兄さん」かも知れませんし、「主(ぬし)は」かも知れません。それはさておき、梨郷村と大塚村は、昔からあまり仲がよくなかったといいます。よく言われる、隣同士だから・・・ということではありません。その原因は、最上川にあるのです。川をはさんで、時にはイガミみ合っていたのです。現在の最上川は、川の両側に広い河川敷や遊水地があり、大塚側には高い堤防があります。しかし、私が小学低学年の頃までは、河川敷も堤防もありませんでした。そして、川のほんの両岸近くまで、畑や水田が迫っていました。互いの村の人達が農作業をするのを、川越しに見ることが出来ました。問題なのは、度重なる洪水によって、川の流れが少しずつ変わっていくことです。やがて川の蛇行がひどくなって流れが悪くなり、益々洪水もひどくなる・・・と、いった具合です。

  そうなると当然、蛇行している川に改修工事を加え、水の流れを整えようという事になります。しかし、川の両側まで畑や水田です。互いに自分の村の畑や田んぼを失いたくありません。改修計画は、中々まとまりません。父に聞いた話ですが、父が子供の頃か、はるか前の江戸時代の話かは忘れましたが、それにまつわる話があります。ある時、梨郷村の人達は度重なる洪水に耐え切れなくなったのでしょう。梨郷村の人達は、川の改修工事を強行することにしたのです。つまり、蛇行している川を真っすぐにすることにしたのです。多分、大塚村との事前の交渉は決裂していたのでしょう。その改修工事が行われると、大塚村の方に大きく川筋が移動するのです。大塚村の人達にとっては、重大な問題です。自分達の土地が大きく失われることになるので、決して譲れる問題ではありません。しかし、梨郷村の人達の決意は固かったのです。大塚村の人達の邪魔も入り、お互いに石を投げあったりしながら、工事を強行したということです。その新しい川を作るために掘った残土の山が、舟着場に隣接してありました。村人達は、「ホリケヤマ」と呼んでいましたが、例によって「掘り替え山」ということです。そのホリケヤマには大きな雑木が沢山生えていました。川によって種や養分などが運ばれて来て、そこに大きく根付いたのでしょう。ですから、工事はずいぶん昔のことだったかも知れません。ホリケヤマは子供の頃の私にとっては、格好の遊び場でした。少し開けた所に、いつもヤギをつないでいましたし、犬と遊んだりしていました。山芹やワラビなどが採れ、時々立ち木からアオダイショウが垂れ下がったりしていました。

  一方、私の村には川の改修によって、湖のような古い川が取り残されました。最上川との水の出入りは、洪水の時以外はなくなっていました。「フルカワ(古川)」と、村人は呼んでいました。そのフルカワには、菱など水草が沢山が浮いていて、巨大なナマズやライギョが数多く棲んでいました。底なし沼のようで、飲み込まれてしまいそうな不気味な所でした。多分、菱の実は古代人の食料の一つでしょう。そのフルカワで、村の人達が時々共同で漁をしていました。しかし、ナマズやライギョは身が軟らか過ぎてドロ臭く、、家庭では美味しく料理出来ませんでした。ナマズの名誉(?)のために申し上げますが、専門のお店で食べるナマズ料理は、とても美味しいと聞きます。ちなみに、梨郷村にはナマズ専門の川漁師がいて、町で売って生計を立てていました。料理屋などに納めていたのでしょう。その家には、私と同級生の子供がいました。ある時、父がとって来たばかりのライギョをさばいてアライにしました。それはイカつい外見に似使わず、鯉のアライみたいに、とても美味しいものでした。しかし、その後二年くらいはジンマシンに悩まされました。時々、あっちこっちの皮膚にミミズバレが出ましたので、寄生する顎口虫(がっこうちゅう)に感染したのかも知れません。。そのフルカワも、米の増産が叫ばれていた頃、埋め立てられて水田になってしまいました。私が小学生の頃です。しかし、その水田の一部が、大塚村の人のモノになったという話は聞きませんでした。

  大塚村と梨郷村の人達がいつも、イガミ合っていたかというと、そうではありません。橋がかかってからは、人々の往来も多くなったのでしょう。母のように大塚村から嫁に来ている人もいて、普段はけっこう仲よくやっていました。長い間、大塚村(後に川西町になってからも)の村長さんは、梨郷村の開拓地区の住人でしたから・・・。梨郷村は置賜盆地の縁にあるので、特に梨郷村の梨郷地区の耕地は畑が多く、他の大部分は山林です。それに対して大塚村は盆地の中央寄りにあるため、殆どの耕地は水田で、山はありません。大塚村は、梨郷村よりも人口が多く、後に「井上ひさし」さんの出身地、小松村と合併して川西町となりました。最上川の西にあるから川西町ナンテ、ごもっともな発想です。大塚村の人達は時期になると、梨郷村の山に来てコシアブラ(木の芽で食用)やワラビ、キノコなどを採ったりしていました。戦時中、梨郷村に炭鉱があった頃は、勤労動員か分かりませんが、多くの人達が大塚村から働きに来ていたということです。私が小学生の頃、最上川で建設省が直営で工事をやっていた時も、大塚村の人達が大勢、梨郷側の工事現場で働いていました。母の二番目のお兄さんも、農家に分家してある時期、現金収入を得るために、その工事現場で働いていました。その伯父さんは戦争中、軍曹だったという屈強な人で人望もあり、たちまち皆のまとめ役的な存在になっていたということです。しかし、子供の私には、目つきの悪い、コワイおじさんにしか見えませんでした。

  私が四・五歳の昭和20年代半ば頃、旧舟着場の所には、まだ真新しいコンクリート製の、旧「幸来橋」が架かっていました。そして、すぐ側の水中に、木造旧橋脚の残骸が見えていました。まだバス以外の自動車は殆んど通らない時代だったせいもあって、たまに荷馬車が向こうから来ると、途中ですれ違えず、バスは長い橋の一方で待っている有り様でした。橋は舟着場から見るとかなり高い位置にあり、まるで空に橋がかかっているように見えました。将来、堤防を造るのを見越して、高い位置の橋になったのでしょう。その橋に連なる両側の道路、特に梨郷側の道路は急坂になっていました。当時バスは薪を燃やして走る、いわゆる「木炭バス」でした。ボンネット・バスの後ろに張り出した荷台に、欄干状の囲いが付いていて、その中に煙突が付いたカマドみたいなモノが乗っかっているのです。馬力が弱かったらしく、なかなかその急坂を自力では登れません。乗客や、近くで農作業をしている人達が後ろから押してあげ、ようやく登れるありさまでした。又、橋の上では車がめったに通らないことをいいことに、橋の上でムシロを広げ、豆の枝を棒で叩いて脱穀をしている人もいました。私は小さかったので名前はうろ覚えですが、
川向こうの橋のたもとに一軒だけ家があって、その家のおばあさんでした。小さな店もやっていて、母とは親しかったようです。その家の前には、私の家から一番近いバス亭があり、母が実家に行く時、利用していました。そして、大空にかかる橋の上を、白い日傘をさした着物姿の母が歩いているのを、よく見かけました。母はまだ、30歳前後でした。

       
                 (2010.5.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.20
★梨郷村では、殆んどの家で大きな番犬を飼っていた
  私が子供の頃、家では犬を飼っていました。最初に飼った犬は、私が3・4歳頃で、すぐ居なくなったのでよく覚えていません。白い子犬が、家の前を走り回っていたのは覚えています。母の実家で白い秋田犬(?)を飼っていましたので、その犬が産んだ子犬だったのかも知れません。父は誰かに連れ去られたのではないかと、遠くまで探しに行きました。旧舟着場に住んでいた頃です。放し飼いにしていましたので、事故にでもあって亡くなり、川に流されてしまったのかも知れません。二番目に犬を飼ったのは、私が小学二年生ぐらいの時でした。この犬は5年ぐらい生きていました。ですから、私が中学生ぐらいまでいましたので、子供時代はこの犬といつも一緒という感じでした。どっちの犬も、父が「ジョン」と名付けました。かつて父が戦った(?)敵国アメリカ人の名前のつもりだったのでしょうか・・・。ですが、父は映画が好きでした。しかも、もっぱら西部劇ファン。ですから、西部劇俳優「ジョン・ウェイン」から取ったものかも知れません。しかし、メス犬だったので、ジョンという名前は変です。父は番犬として飼っただけで、犬と遊んだり、世話をやいたりすることはありませんでした。母も、味噌汁をかけたゴハンをやるだけで、あまり犬と遊んだりしませんでした。2代目ジョンといつも遊んでいたのは、もっぱら私だけで、私に一番なついていました。

  10年以上前でしょうか(?)、ある新聞記事がありました。子供の頃、犬と一緒に家出をして、鉱山の廃坑などで数十年も野宿生活をし、発見され保護されたという中年男性の記事です。覚えている方もおられるかと思います。その犬が、どこからか食べ物を、運んでくれていたということです。多分、コンビニの廃棄食品だったかも知れません。以前コンビニでは、表のゴミ箱などに廃棄物を捨てていましたから・・・。そして、犬が死んだ時は、とても悲しかったということでした。その後の記事によると、その人は現代社会に馴染めなかったらしく、再び野生生活に戻って行ったということでした。その後どうなったかは、分かりません。後日談をご存知の方は、教えてください。群れで暮らす狼の末裔(まつえい)である犬は、家族の序列にこだわる動物として知られています。しかし、少年と一緒に家出をしたこの犬は、「群れ」のボスである少年の父親を選ばずに、少年を仲間として選んだことになります。もしかして、自分より下位であると思っている少年に対し、母性を感じたのでしょうか。母犬が子犬にエサを運んでくるように・・・。ちなみに、メス犬に子猫を預けると、子育てするというのはよく聞きます。不思議なことに、その「母犬」の乳首からは、オッパイが滲み出てくるということです。妊娠していなくても、オッパイは出てくるものなのでしょうか。人間も、そうなのでしょうか・・・?

  ジョンの母犬は、シェパード系の、狼のような大きい犬でした。母の姉、つまり伯母さんの家の犬でした。いつもつながれていて、ストレスがたまっていたのでしょう。側を通ると、スゴイ勢いで吠えたてました。もしクサリが切れたら、かみ殺されてしまいそうな雰囲気でした。その方が、番犬にはなるかも知れません。一方、私のジョンは、味噌汁ぶっかけゴハンで栄養不足なためか、母犬と比べると全然大きくありませんでした。体型も、相手のオス犬が影響したらしく(?)、どちらかと言えば、中型の日本犬のようでした。ジョンはメス犬でしたが、不妊症だったらしく、放し飼いにもかかわらず、子犬は生まれませんでした。日中は、いつも放し飼いだったため人馴れし、近所の人には誰にでもしっぽを振っていました。さすがに、見知らぬ人には吠えていました。しかし、雷が鳴ると怖がり、とても一人(?)ではいられないとばかりに、私の側に近寄ってきました。そんな時はシッポを巻いて、後ろ脚がブルブル震えていました。私は雷など、いたって平気なのです。犬は群れで暮らす関係上、人の心を読み取るのに長(た)けていますから、きっとコイツと一緒にいれば大丈夫だと思ったのでしょう。そして、私がハーモニカを吹くと、いつもそれに合わせて遠吠えして歌う(?)のです。毎朝学校に行く時、途中まで付いて来て、追い返すのが大変でした。そして、学校から帰って家の近くまでくると、どこかで私を待ち伏せしていたらしく、私が口笛を吹くと、いきなりその辺の藪(やぶ)から飛び出して来ました。多分、私が家出をしたら、一緒に付いて来てくれたかも知れません。そのジョンは、旧舟着場から引っ越して、私が中学一・二年の頃、ネズミ捕りの毒ダンゴでも食べたらしく、私の留守中、母に看取られて亡くなりました。

  父は衛生兵だったので(?)、毒の吐かせ方を知っているということでした。父も日中役所勤めしていて留守だったので、それが出来ずに残念がりました。母はなんとかしようと、仁丹を飲ませたということです。ちなみに父の話によると、農薬などを飲んで自殺を図った人等、毒を吐かせて、胃を洗浄する方法があるということを教えてくれました。不幸にも、参考になることもあるかも知れませんので、ここに書きます。先ず、大きなヤカンに水をいっぱい入れて、塩水を作ります。その塩は、精製した食卓塩ではダメだと思います。塩化マグネシウムなどが含んだ、粗塩(天然塩)です。難破漂流中など、海水を飲むと、吐くと聞きます。先ず、患者を仰向けに寝かせ、無理やり、それを口から沢山流し込んで、飲ませるということです。そうすると、やがて吐き気をもようしてくるというのです。そして何回も吐き出すまで、手を緩めずに塩水を飲ませ、胃を洗浄するということです。農村ですので、農薬を飲んで自殺を図る人もいたのでしょう。当時そのやり方を知っている人は、結構いたということです。なにしろ、無医村ですし、救急車などない時代です。とても間に合いません。医師法違反も何も、考えている時間的余裕はありません。とっさの判断でやらなければ、救える命も救えません。消防団の人たちも、人工呼吸をして、溺れた子供の命を救った話などよく聞きました。当時の大人たちには、そんな頼もしさがありました。ちなみに、救急医にしても、人工呼吸をする時は、たとえ肋骨が折れたとしても、蘇生する方をを優先していると聞きました。骨粗鬆(こつそしょう)の老人もいるでしょうからネ。

  私が子供の頃は、殆んどの家で大きな番犬を飼っていました。防犯のためもあったかも知れませんが、キツネやイタチによる、ニワトリ・ウサギなどの被害を防ぐためです。犬は、キツネやイタチの天敵だからです。そういえば、お稲荷さんを祭っている家では、犬を飼っていませんでした。狩猟や山菜採りに行く時などには、熊よけに犬を連れて行きました。犬には「帰すう本能」というのがありますから、道なき山中で迷った時でも無事家に帰れます。ですから農村では、小型の室内犬など、見たことがありませんでした。雑種が殆んどで、たいてい知り合いの家から貰ってきました。私の家で飼った犬は2匹だけでした。集落から離れた旧舟着場に住んでいて、遊び相手が少ない私のためにも、父が飼ってくれたのかも知れません。母は、死んでしまうのが可愛そうだからといって、私が上京してからは飼っていませんでした。両親の死後、実家を引き継いだ妹は、ビーグル犬を飼いました。親戚の法事などで、頻繁に帰省するたびに散歩をさせていたので、私が帰ると飛び付いてきました。ビーグル犬は元々猟犬ですので、元気いっぱいの犬です。その犬は10年以上も長生きしましたが、ガンで亡くなりました。お腹に触ると、はっきり分かる程の大きなガンでしたが、あまり痛そうな素振りも見せませんでした。妹は落胆していましたが、また同じ様なビーグル犬を飼っています。    

      
                  (2010.6.1記載)
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