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「りんごう村」
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.21(佐藤 一)
★梨郷村の、昔の農業は、野鳥と共にあった
  不忍(しのばず)通りの、本院すぐ側に、2年ぐらい前までタクシー会社がありました。今は、取り壊されてありません。事務所と車庫で、敷地が3百坪ほどありました。その広い跡地が、現在は時間貸しの駐車場になっています。タクシー会社があった当時、昼間は車が出払っていて、整備の人(?)らしきツナギ姿の2・3人がいるだけでした。ガラーンと開け放ったその建物には、ツバメの巣が沢山ありました。外からちょっと見かけただけで、10個以上はあったと思います。この近辺はおろか、都心で沢山のツバメの巣がある場所など、他に見かけませんでした。古い建物で、鉄骨の梁(ハリ)ににこびりついた、ツバメのフンの汚れ方からしても、多分何十年も巣があったのでしょう。あのツバメたちは、日本に戻って来て、巣作りしていた建物が突然なくなってしまい、さぞ戸惑った事と思います。考えてみますと、都会の中で、エサになる虫などいたのでしょうか・・・。もしかしたら、樹木や植物がいっぱいの六義園(りくぎえん)には、毛虫などもいるかも知れません。自然が少ない東京都心で、あまりツバメを見かけない訳が、分かるような気がします。皇居には、ツバメのみならず、野鳥が沢山棲(す)んでいて、その巣もありそうですネ。

  東京都心では、飛んでいるツバメを見かけることは、滅多にありませんが、梨郷村では、いつも見かけていました。特に春先雨が降る前後は、よく見かけました。ちなみに、「ツバメが低く飛ぶと雨が降る」と言います。エサになる虫が、雨を避けるため動き出すからでしょうか・・・。田起こしやシロカキをしていると、土の中から虫が這(は)い出して来ます。そんな時は、すぐ側をツバメが虫を取るために、低空飛行を繰り返していました。そして、そのツバメの巣もよく見かけました。人家や納屋などに巣をかける腹の白いツバメと、川岸の崖(がけ)など、野外に巣をかける腹の赤いツバメがいました。昔の農家には大きな番犬がいましたし、お年寄りは家の回りで仕事をしていて、出たり入ったりしていました。ですから、母屋も納屋も、日中入口は開けっ放しでした。ツバメが棲み着く家は、火事にもならず縁起がいいと、むしろ歓迎されていました。そればかりか、巣がはがれ落ちそうなると、板を巣の下に打ち付けて補強してやる程でした。夜はツバメが巣に戻ったのを確かめてから、玄関を閉めていました。そして、夕食をしている近くの天井の巣で、ツバメが寝ていました。皆、土間の多少のフンなど、気にかけている様子もありませんでした。やはり農家は、農薬のない大昔から、害虫を取ってくれるツバメを大切にしていたのでしょう。動物はイジメなければ、(エサと)好奇心につられて、近寄って来るのは当たり前のことです。

  数羽のヒナが食欲を満たすためには、エサになる虫が沢山必要です。ヒナが成長するに従い、巣にヒナだけ残して、ツガイでエサ捕りに出かけます。そして、ひっきりなしに家に出たり入ったりしていました。ツバメは飛翔能力にすぐれ、その敏捷性と共に最速飛行の鳥です。飛んでいるツバメを捕まえられる鳥や動物はいません。しかし、卵やヒナは、カラスやアオダイショウなどに狙われてしまいます。野山に巣をかけていた頃は、散々やられたのでしょう。それで身につけた知恵なのでしょうか、人家ならば安全という訳です。人家でも、アオダイショウが近寄れない、一階天井部分に多く作ります。梅雨時の北国は、時として寒いです。しかし、イロリのある部屋近くなら暖かいです。家人を全く恐れません。家猫も、いつも同じ屋根の下で一緒に暮らしているので、家族同然に思っていたのでしょう。襲う素振りもありませんでした。秋になってツバメが渡った後は、空っぽになった巣を見上げながら、心にぽっかり穴が開いたような気にさえ、なるということです。中には、越冬するツバメもいるということですが、雪国ではムリなのでしょう。見たことは、ありません。最上川べりの崖の所には、やや小ぶりの岩ツバメが沢山巣をかけていて、群れを成して飛び交っていました。ちなみに、スズメの丸焼きを食べさせる店はあっても、ツバメを食べさせる店など、聞いたことがありません。きっと、食べても美味しくないのでしょう。それも、ツバメにとっては、幸いしたのかも知れません。食べて美味しいものを、貪欲な人間が放って置く筈はありません。なにしろ私達の祖先達は、鶴も食べたといいますから・・・。

  5年ぐらい前、NHKラジオの英語リスニング講座で、オスカー・ワイルドの、「THE HAPPY PRINCE」という教材ををやっていました。彼が子供向けに書いた、短編小説です。物語の舞台は、北欧のとある古い都です。宮廷内で何不自由なく育った、若き王子が亡くなりました。そして、城下の塔の上に、黄金と宝石に飾られ、立派な銅像になりました。街中(まちなか)に出て来た(?)王子は、城壁の外の世界を、隈なく見渡せるようになりました。その結果、初めて人々の貧しさや、不幸な生活を目の当たりにします。そして、深く心を痛めていました。あたりは、寒い冬がそこまで迫っていました。そんな時、ふるさとエジジプトに急いで渡る途中のツバメが、一夜の 宿を求めて、王子の足もとに羽を休めます。そして、王子の頼みを断りきれず、しばらくここに留(とど)まることになったのです。銅像なので動けない王子に代わって、気のいいツバメは、あっちこち使いに飛び回ります。王子の銅像を飾る黄金や宝石を、一つずつ剥(は)がし、貧しい人々に届ける仕事でした。次々と王子の頼みで飛び回るうちに、エジプトに渡りそびれてしまいました。王子の頼みで、宝石で出来ていた王子の両眼までも、貧しい人々に配っため、王子の眼の代わりを勤める決心をしたからです。そして、ひとしきり飛び回っては、いつも王子の肩の上で、楽しそうに街の様子などを王子に話していました。しかし、やがて雪が降り始め、寒さでこごえて死んでしまいます。最期は、全て装飾をなくし、スクラップになった王子と共に、心打たれた天国の神の元に召されます。王子の肩に乗ったままの姿で・・・。

  私が子供の頃、梨郷村は、ほぼ100%専業農家が占めていました。現在のように、農薬も多く使っていません。先に述べましたように、江戸時代や、それ以前は農薬は全くありません。農作物の害虫は、沢山いたと思います。生の草木を燻(いぶ)し、多少の虫追いはしていたかも知れません。しかし、もっぱら野鳥や昆虫などに頼っていたと思います。又、クモや蛙なども、エサとして害虫を沢山食べてくれます。お米の収穫時期、稲穂をついばむ雑食性のスズメは、農家の人の目のカタキにされます。しかし他の時期は害虫を沢山食べてくれるので、年間を通じては、むしろ益鳥です。もちろん、稲に付く害虫も食べてくれますし、収穫時期沢山いたイナゴだって食べていたと思います。その辺のところは、農家の人も分かって付き合っていたのです。その証拠に、スズメを悪者にした昔話はありません。又、キャベツによく付く青虫(あおむし)も、モンシロ蝶になると、作物の花の受粉を助けます。ですから、どの種も滅ぶことなく、自然界は、バランスを保っていたと思います。昔の野菜はアクが強かった。ほうれん草も、そのゆで汁は真っ茶色になりました。今はアクが殆んどなく、生でも食べられます。戦後日本人は、アメリカ人のマネをして、生野菜のサラダを食べるようになりました。アクは害虫に食べられないため、植物が自衛のために身に付けた毒です。当然、今のアクのない野菜は、害虫に対して無防備です。ですから、大量の農薬が必要になってきたのです。その農薬のせいで、害虫を捕食するクモなども死滅します。トキの絶滅も、彼らのエサ不足など、生態系の破壊から来ていたのではないでしょうか・・・。そうなると、なおさら農薬が必要になってくるという悪循環です。そして、0%には出来ない残留農薬は、人間にとっても、程度の差こそあれ毒です。

  スーパーなど、売る側の都合で、見栄えよく形をそろえた真っすぐなキュウリや、大きさを完璧に揃えたパック詰め野菜は、もはや自然とはかけ離れたものです。そういう商品しか扱わず、「消費者がきれいなモノを望むから・・・」という言い訳に終始し、過剰サービスに徹しています。テレビなど、ヨーロッパの街角で、野菜や果物を売っている店が映ることがよくあります。殆んどが、不揃いなモノを山積みして売っています。それでも充分売れていると思います。昔の日本も、かつてはそうだったのです。せいぜい、小ザルに入れて並べる程度でした。それでも不買運動など起きずに、充分売れていたし、充分買っていました。ですから、誰の責任かは明らかです。私が梨郷村で暮らしていた半世紀程前は、カッコウやキジバト・ヒバリ・ヨシキリ・フクロウなど、いろいろな野鳥の鳴き声が聞こえていました。しかし、現在帰省しても、彼らの鳴き声を耳にすることは、殆んどありません。10年以上前になります。母の生前、真夏の暑い日に帰省したことがありました。夕方突然、家中の窓を全部閉めさせられました。エアコンもないので、とても暑いです。ヘリコプターによる、農薬の空中散布をするためです。(窓を閉めても、「松本のサリン散布事件」でも分かるように、農薬は容赦なく家中に入り込んで来ます。)そのせいか、「庭に虫がいない」と、母が言っていました。そうなると、やはりエサ不足から、野鳥も数を減らします。自然界のバランスを崩してしまったのです。私達は効率のみを考え、間違った選択をしていないでしょうか・・・。

     
                   (2010.7.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.22
★梨郷村では、子供だけの年中行事を行っていた
  ページトップの写真は、まるで天国に通じる道路のように見えますが、梨郷村に古代からあったと思われる道路です。点在する家々は、お寺と旧家ばかりです。梨郷村としての歴史は古く、口分田の律令時代には、すでに村として形成されていたようです。しかし、最上川沿いの丘陵地から、石器・土器が数多く出土するところから、村はもっと古くからあったかも知れません。この道路は、最上川よりかなり高い位置にあり、洪水の心配が全くない所です。伊達領時代は山城から近く、たとえ敵に攻め込まれたとしても、敵に悟られず、夜陰に乗じて兵を移動出来たと思います。そして、これより少し低い位置に、平行して走る幅広い道路が出来ました。多分、伊達領の時代の城下でしょう。その道沿いに、「酒町」や「粡町(あらまち)」などの町名が付いた地名があり、梨郷村としては比較的住宅密集地です。そして江戸時代までは、メインの街道でした。私が小学生の頃は、もうすでに旧道になっていましたが、通学路は、もっぱらその道路でした。道幅の関係で、やはり平行して走る新道(国道)が出来、そこをバスが通っていました。現在は、他にバイパスがあり、さらに大きな別の道路も出来つつあるようです。民主党政権になり、予算の関係でどうなることでしょうか・・・。

  一時期、梨郷村は梨郷村・竹原村・和田村・砂塚村に分村していました。そして、再び合村して梨郷村に戻っています。鉄道が通るまでは、政治的に、長く梨郷地区が村の中心でしたが、竹原地区に鉄道の梨郷駅ができてからは、その役割は竹原地区に移りました。ですから、小中学校・村役場・駐在所・郵便局などは、全て竹原地区に出来ました。又、薬屋・自転車屋・豆腐屋・文房具店・床屋さんなど、数少ない店も、殆んど竹原地区の梨郷小・中学校付近に集中していました。他に、パチンコ屋と、同じ場所に入れ替えで、ラーメン屋が出来た事がありましたが、あっという間に潰れてしまいました。パン屋さんが出来たこともありましたが、やっぱりすぐに潰れてしまいました。薬屋さんや、文房具店などは、専業の商人でしたが、ラーメン屋さんやベーカリーなどは、農家の人が兼業で始めたモノだったのでしょう。商売に不慣れな農家の人が、ドンブリ勘定でやってみても、うまく行かないのは当たり前です。親戚や親しい人が来れば、気前のいい農家の人は、商品をお土産に只でくれてやり・・・という具合でしょう。だいたい、農家の人は出前など取りません。パン食にしたって馴染みが全くなく、「パンは、食前に食べるのですか、食後に食べるのですか・・・?」という具合で、おやつ感覚でしかありませんでした。パチンコ屋さんにしたって、顔見知りばかりの農村で、昼間っからパチンコをやっていたら、嫁さんの来手もないでしょう。世間の笑い者になるのがオチです。そういうものが好きな人は、もしやりたければ、人目の付かない隣町に行ってやっていたと思います。

  他の地区でもあったかも知れませんが、梨郷地区では子供達だけが行う年中行事がありました。梨郷村はかつて、ほぼ専業農家だけの村でした。農業というのは、用水路の定期的な整備や入会地の手入れなど、共同作業が付き物です。江戸時代までは、農民の他藩への移住は禁止されていました。ですから、お嫁さんや養子以外、村の農民の子は全てその村の農民になりました。一部の恵まれた子供が行く寺子屋はあったでしょうが、小学校もない時代です。子供だけの年中行事は、将来村の一員になるための、予行演習の意味もあったでしょう。私が子供の頃も、それがまだ残っていました。梨郷地区のその又各部落に分かれ、自主運営していました。(高校生は含みません。村には、小学校に付随して、定時制の農業高校の分校がありました。その学生達は、将来村で農業に従事する人達なので、消防団も含む青年団に入っていたと思います。)ただし、持ち寄るご馳走など、父兄の多少のサポートはありました。先ず、毎年恒例の七夕の行事がありました。旧暦の七夕の前日と当日と2日間やります。私が属していたのは、「下巻部落」という地区で、4つの「5人組」から成っていました。5人組といっても、江戸時代に出来た制度なので、分家も増えるに従い10軒程になっていました。下巻部落の精米所の二階が、集会所になっていました。前日に、部落の小中学生全員が集まって、準備をします。今まで毎年も経験を積んできた最上級生(中学3年生)が、男女共、地区の行事のリーダーになります。小学1年生の頃は、中学3年生はまるで大人の様に見えました。

  旧暦の七夕は、夏休み中です。夏休み中は、涼しい午前中にその集会場に集まり、一緒に宿題やったりしていました。七夕前日の朝から掃除をしたり、竹飾りを作ります。そして、願い事を書いた短冊をぶら下げたりするのは、どこも一緒でしょう。その晩は、当番の母親達が作ってくれた、ご馳走を食べながら七夕を祝います。その後、全員子供だけで、その集会場に泊まります。夏なのでゴザを敷き詰めただけの上に寝ます。大勢でザコ寝状態です。防火上、蚊取り線香はないし、蚊帳(かや)も用意していないので、たちまち沢山の蚊に刺されてしまいます。それでも平気で熟睡している子もいましたが、私はダメで、途中でいつも自宅に逃げ帰っていました。妹などは、最初から泊まる気さえありませんでした。翌朝またご馳走を食べて、竹飾りを最上川に流しに行きます。梨郷村に限らないでしょうが、神様に備えた神聖なものは、ゴミに捨てたりしません。燃やすか、川に流していました。川は海に流れて行き、その先に極楽浄土があるという思想なのです。仏教発祥の地、インドのガンジス川は、神聖な川とされていますから、そんなところから来ているのでしょう。長年農作業を手伝ってくれた家畜の死骸も、最上川に流していました。農家の人は、農作業を共にする牛や馬を、大切にしていました。その死後はせめて天国でのんびりと、草でも食べてラクしてほしいという気遣いと願いだったのでしょう。そんな訳で、竹飾りを流しながら、皆で川で泳いだりしていました。泳ぎは年かさの子が教えてくれるので、小学校に上がる頃には、全部の子が泳げるようになっていました。泳げなくて流されたら、急流の最上川では、命の保障はありません。

  それから、1年に2・3回、やはり子供達だけで、「文殊(もんじゅ)様の祭り」をやっていました。小学1年生から中学3年生まで、子供だけの自主運営です。文殊菩薩は、「知恵」の神様です。梨郷地区の、4つの各部落全てに文殊様のお堂がありました。部落の子供全員が、なんとか入れるくらいの広さがありました。お祭りは、夜行われます。やはり、その日の午後、皆できれいに掃除をして準備をします。お堂に電灯がないので、ロウソクを買って来たり、子供たちに差し上げる文房具を買って来たりします。祭りは、夕方暗くなる頃から、9時頃まで行われます。各自、母親が作ってくれたご馳走を持ち寄り、それを食べながら、歌を歌ったりしながら、神様を楽しませ(?)ます。途中で、10人以上の子供が、獅子頭と胴体の被り物が付いたモノを持って、部落全部の家々を回って賽銭(さいせん)を募ります。いきなり玄関から土足のまま上がり込み、奇声を発しながら、イロリのまわりなど駆け回ります。ひとしきりそれをやった後、「ご苦労様」と、いうわけで募金箱みたいな物にお金をいれてもらい、家によってはご馳走にあずかります。その賽銭は、次のお祭り開催の資金になります。昔から代々の子供たちがやっていたようで、おそらくは、伊達や上杉の時代からやっていたかも知れません。昔の人が寄進したものでしょうか、祭壇の下の物置には、古くなった脇差一振りがありました。

  私が子供の頃、小中学校は40人クラスで、学年2クラスずつありました。ですから、中学校は全校で200人以上はいたと思います。ところが、少子化と過疎化の影響から、今は全校で46人しかいないということです。それで梨郷中学校はなくなり、他の中学校に統廃合になるということです。現在は、子供だけの自主運営の行事など、おそらくはやっていないと思います。私の子供の頃は、どこの家にも子供が5.6人いました。そして、表で大勢で遊んでいました。 
                        (2010.8.1記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.23 (佐藤 一)
★梨郷中学校の修学旅行は、山形の貸切バスだった
  写真の場所は、旧梨郷村の古い地名で「宮城(みやぎ)」といいます。近くには、伊達氏の家臣「増田摂津の守」の居城がありました。その増田興隆の奥方は、伊達政宗の乳母だったといいます。(一般に正宗の乳母として知られる「喜多」は養育係りであり、授乳はしていません。独身で文武両道に優れた片倉喜多は、生母に疎まれた幼い正宗に、作法や剣術にいたるまで時に厳しく教えたそうです。)そして近くには、増田摂津の守が帰依し再建したと伝えられる「本覚寺」があります。だいたい、「・・・の守」といのも不思議な呼称です。元々は任地の官名の筈です。例えば、源義家は陸奥の守だったごとくです。しかし、秀吉が「羽柴筑前の守」と呼ばれていた時は、まだ信長の勢力が九州まで及んでいませんでした。ですから、筑前国を治めていた筈はありません。直江兼続が、秀吉から「山城の守」を拝命した後、別に山城国を治めてはいないでしょう。むろん、増田摂津の守も、関西の摂津国を治めた訳ではないでしょう・・・。

  伊達氏が国替えで去った後、上杉の時代になって、梨郷村は純農村になったようです。本覚寺は元々天台宗のお寺でしたが、上杉の時代になってからは、日蓮宗に改宗しています。正確には、法華宗です。佐藤家代々のお墓もこの寺の墓地にあり、門前に佐藤本家があります。父の生前、お盆の夜の墓参りの帰りには、必ず家族全員で本家に立ち寄り、仏壇にも手を合わせていました。そして少しご馳走をいただき、暗い道のりを提灯(ちょうちん)のアカリを頼りに歩いて帰りました。街灯のなかった時代の田舎は、月や星が出ていない夜は押入れの中と同様、一寸先も見えない真っ暗闇でした。ですから、提灯のあかりでも足元が見えるだけに充分でした。写真の通りは古くからの街道で、梨郷神社と三つのお寺が、この街道沿い集中しています。道は東西に走っていて、西は置賜地方最大の舟着場・長井市に、東は熊野大社の門前町・宮内町に通じる街道でした。バスが通る、新道が出来る前の事です。子供の頃、長井市は遠いので、買い物など町へ行くといえば、宮内町でした。梨郷小学校からは一里(4km)以上離れていました。

  小学生の頃から学校行事で、よくで歩いて宮内町へ行きました。途中、「夕鶴の里」で有名な漆山村を通ります。宮内町には、映画館が二つあったからです。つまり、映画鑑賞です。全校では大人数になりますので、数日に分けて行っていたと思います。ディズニーのアニメ映画や、文部省推薦の映画など数多く見せてくれました。全校ですと、入場料も大きな額だったろうと思います。そんな中で、立体映画なんていうのもありました。片方が青で、もう片方が赤のセルロイドのメガネをかけて画面を見ると、ボールや列車などの映像がこちらへ飛び出して来るように見えるのです。しかし低学年の頃は、半分くらい眠っていました。私の家は学校まで遠く、その上隣町まで歩くのは大変です。昔の田舎の子供は脚が丈夫とはいえ、サスガに疲れました。映画を見ていても、だんだんマブタが重くなってくるのです。一眠りしたせいか、帰り道は行きより近く感じました。しかし、眠ってしまうと、後で感想文を書く時が大変です。映画鑑賞に限らず、小学生の頃はやたらと歩かされました。いわゆる、遠足です。長井市など遠い所は、行きが徒歩で、帰りは汽車でした。たいてい、行き先近くの小学校などで一休みしました。町の小学校に行くと、メガネをかけた子が多いのには驚かされました。皆、アタマが良さそうに見えました。ちなみに、私のクラス42人中、メガネをかけた子は一人もいませんでした。中学3年生の時まで、そうでした。私の視力は2.0ありました。勉強もしたのに・・・です。きっと、開けた地形の中で育って、遠くを見ることが多かったからでしょうか。

  中学三年生の時、三泊四日くらいの修学旅行がありました。五月頃だったと思います。日光、東京、横浜港といったコースです。今考えると笑ってしまいますが、全行程、「山形交通」の貸切バスでした。山形交通は、当時大きなバス会社でした。そのバスの車体の色はピンクと赤と白で、元デザイナーの私が知る限りでは、日本一美しい配色のバスでした。半世紀前としては40人以上乗れる最大級のバスですが、もちろんボンネット・バスです。学年42人ずつの2クラスなのでバス2台に分乗し、交代の運転手さんや車掌さんはもちろん、担任や校長先生の他、写真屋さんや校医まで同乗して行きました。そして、翌年三年生を受け持つ先生も、見習いとして乗っていたような気がします。田舎者の中学生が山手線に乗り換えたりして、迷子にでもなったらイケナイと学校も考えたのでしょう。しかし、砂利道の多かった当時、バスに揺られっぱなしの修学旅行は、本当に疲れました。修学旅行から帰っても、二・三日は体が揺れているようでした。私は当時、非常に小柄で、私だけ小学生用のシャツ襟風の学生服を着ていました。普通の体格の中学三年生にとって、バスの座席二人掛けはさぞかし窮屈だったろうと思います。おまけに雨ばかりで、ちっとも楽しくありませんでした。印象に残った所といえば、日光の旅館のキタナイ蒲団と、今はなき国際劇場とプラネタリウムくらいのものでした。東京タワーは、まだ建設中だったと思います。

  日本橋三越では自由行動になり、買い物をしました。私は、かねてから欲しかったハーモニカを買いました。真偽の程は分かりませんが、三越の従業員は全員大卒だと聞いていました。まだ、中卒や高卒が圧倒的に多かった時代にです。当時、三越は日本一の老舗百貨店だったのです。ですから、本当のことだったのでしょう。私の同級生の叔父さんは、その三越の社員で、万引き対策の探偵をしているということでした。今で言う、万引きGメンでしょう。ところで集合場所は、ライオンの像がある入り口ということでしたが、私は迷ってしまい、集合時間に遅れて怒られました。店員に聞こうにも、ズーズー弁なので、うまく話せませんでした。ハーモニカを買った時には「コレ・・・」と指差しただけでした。昔の田舎では、特に山間部は国語の先生でさえも、ナマッテいました。以前テレビで活躍した、山形出身の「無着成恭」という先生ををご存知でしょうか・・・。ちなみに私のズーズー弁は、日本語の通訳が必要な程でした。東北の寒い地方の人達は、口を大きく開けないで話すために、声が口の中にコモって発音が判然としません。つまり、江戸っ子と違って、歯切れが悪いのです。後に上京してからも言葉が上手く通じませんでした。国鉄にまだ自動券売機が設置されていなかった頃の話です。田端までの切符を買ったつもりが、蒲田の切符を出されたりしていました。

  そんなわずらわしさががトラウマになったらしく(?)、私は旅行なんてちっともしたいと思いません。寝っ転がってNHKテレビの、「世界遺産」や「世界ふれあい街歩き」などを見ている方が、気楽でずっといいと思ってしまいます。最近は画面がきれいなので、バーチャル・リアリティーで充分楽しいと思っています。大画面ならなおさらです。お金もかからないし、置き引きにあうこともないし、飛行機事故の心配も全くありません。「ダーウインが来た」も好きでよく見るのですが、これが実体験だったら猛獣などの危険にさらされ命がけですヨ。バーチャルで絶対満足出来ないのは、食事くらいのものです。だいたい自分の目のレンズの他に別のレンズを1セット通しただけの事です。脳に達する情報としては、そんなに違いません。私達が実際見ているものにしても、ある意味不確かなものに過ぎないかも知れないのですから・・・。しかし、こういう考え方を皆がしだしたら、人類は衰退するかも知れません。若いうちは、どんどん表に出て冒険しましょう・・・?

  実は私は、梨郷村と近隣の町村と出身高校があった米沢市以外、山形県内の事を殆ど知らないし、行ったこともないのです。せいぜい遠足で行った範囲内です。今頃になってテレビなどで見て、山形県にもいろいろ所があったんだなあ・・・と思っています。なにしろ田舎の子供としての関心事は、「東京」だけにしかありませんでした。田舎のことは一切眼中になく、映画を見ては東京に憧れていました。そして、一刻も早く田舎を出て、東京で活躍したいの一心でした。豪雪地帯の山形で、雪降ろしをしながら一生を送るのもイヤだったのです。そのせいか、東京に出て来ても、殆んど山の手線の内側にしか住んだことがなく、現在は文京区にこだわって30年位住んでいます。
又、寡黙でひどかったズーズー弁も、デザイナーになって、必死でスポンサーを説得しているうちに、すっかり滑舌も良くなり立て板に水。最近は、冗舌にしゃべり過ぎるような気がして、反省しています。たくさん喋れば喋るほど、肝心な所の印象が薄まってしまいます。

     
                   (2010.9.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.24 (佐藤 一)
★梨郷村では、若い女性が沢山農業に従事していた
  私が小学校低学年の頃までは、農村では農業に従事している独身女性が沢山いました。その殆んどが20歳くらいまででした。都会はまだ疲弊していて働き口もなく、高度成長期には、まだ間がありました。新聞の一面には、よくマッカーサー将軍の写真や、吉田茂首相の写真が載っていました。ちょうど、朝鮮戦争をやっていた頃です。農業はまだ機械化されていませんので、ネコの手を借りたいほど忙しく、大勢で田植えなどやっていました。梨郷村は殆んど全部が専業農家で、農村に人があふれていた時代です。中学校を卒業すると、男女とも青年団に入り、地域で活動していました。そして、女性は農家に嫁ぐという状況でした。それが、当たり前という時代でした。ですから、農村の嫁不足など全く聞きませんでした。当時、梨郷村に限らず近隣の農村にも、健康的できれいな女性がいっぱいいました。

  母の実家は最上川を隔てた隣村で、山はなく殆んど田んぼばかりの村でした。大塚村といいました。いつも10人以上の大家族でした。いつも、というのは次々に長男の子供が生まれて、次々に叔母達や長男の娘達が嫁いで行ったからです。祖母は10人子供を産みました。上から下まで20歳くらい違います。その殆んどが女です。ですから、順繰りに子守をしたといいます。祖父は元々、人力車の車夫をしていたといいます。農家から分家した時は、小さな農家でした。祖父は早く他界し、私が物心付いた頃にはもう亡くなっていましたので、覚えていません。しかし、祖母がやり手でした。子供を沢山産んで働き手にしては、稼いで田んぼを買い増ししていったようです。まるで女王蜂が働き蜂を沢山作って、巣を大きくしていくヤリ方に似ています。舟着場の向こう岸近くに、祖母が買った田んぼが沢山ありました。私が小さい頃はいつも洪水に見舞われていました。条件の悪い所なので、安く買ったに違いありません。実家からはかなり遠い所なので、よく川を隔てた私の家で休憩などしていました。農業は体力勝負でお腹が空くので、三度の食事の他に、オニギリなど間食を摂るからです(「こじはん」と言います)。しかし、最上川の大塚側に高い堤防が出来てからは、洪水の被害にあうこともなく、立派な田んぼになりました。

  時代のすう勢から、最上川にやがて堤防が出来ることを、祖母は察知していたに違いありません。ですから、買い増し買い増しで、田んぼはあっちこっちと分散していました。又、そのあたりで初めてブドウ園を造ったり、ミツバチを飼っていたのも画期的でした。特にミツバチの巣箱なんて、山形県内では他に殆んど見かけませんでした。農地が広くなったために、脚の遅い牛では間に合わなくなったのでしょう。大きな馬で耕作していました。アメリカや北海道ならいざ知らず、他の農家では殆んど牛を使って耕作をしていました。そして、家の前の池には鯉を飼っていて、正月はご馳走になりました。台所の、地中深く掘った掘り抜き井戸からは、いつもコンコンと水が湧き出していて、そのあふれ出た新鮮な水がいつも池に注いでいました。

  母の実家の働き手は、男性が2人と、あとは全部女性でした。叔母さん達もいましたし、伯父さん(長男)の娘達もいました。いつも、大勢の女性で農業をしている感じでした。そして、二十歳ぐらいで、次々に大きな農家に嫁いで行きました。ちなみに私の母は病弱で、もっぱら家事を担当し、農家の嫁さんにはなれませんでした(晩婚で25歳で父と結婚した)。ですから、私が小学生の頃、母の実家では毎年のように結婚式をしていました。送る側の結婚式です。経済的にも大変だったと思います。その嫁入り道具の荷物などは、嫁ぎ先の家付近の人達による、品定めに合います。結婚式は自宅でとり行いますので、近所の人達皆が見物に来ます。ですから送り出す方は、嫁ぎ先で肩身の狭い思いをしないように、沢山の嫁入り道具を持たせます。田舎の狭い社会では、悪い印象はいつまで経っても忘れてくれません。ただでさえ、農家のお嫁さんは大変です。子育てをやりながらキツイ農作業をやって、散々イジメられた姑さんの介護までやって・・・。しかし、戦後すぐの頃には、農業は食うに困らないからと言う理由で、農家のお嫁さんになったのでしょう。

  農家の女性は、お嫁に行く前もいろいろと大変です。冬のワラ仕事の合間に、花嫁修業をします。接客用の料理はもちろん、洋裁、和裁、編み物の他、フトン作りまでマスターしなければなりませんでした。農作業をする時は、真夏の暑い盛りでも日焼けしないように、顔や手脚など全身を覆っていました。顔は手ぬぐいでオコソ頭巾みたいに被(かぶ)り、さらにスゲ笠や、ゴザ帽子を被っていました。腕には手っ甲を付けていました。腰から下は、タッツケ袴(はかま)にワラで作った、「ハンバキ」というスネ当てを付けていました。ですから嫁に行くまでは若いせいもあって、皆色白でシミ一つない、きれいな顔をしていました。稲の葉や穂先などが頻繁に顔や腕に当たると、そこが炎症をおこしてヒリヒリしてくるから・・・というのもあるのです。

  やがて高度成長期に入り、都会に働き口が沢山出来てからは、農家のお嫁さんになろうという人は殆んどいなくなりました。まして高学歴の時代です。東京の大学を出たら最後、農村にはまず戻りません。泥だらけになり、アブに刺されながら田んぼで働くよりは、キャリア・ウーマンになる方がいいに決まっています。体力勝負の農業と違い、大の男をアゴで使うことも出来ます。ウチの息子に嫁さんの来てがないと嘆いているお母さん自身も、自分の娘は農家の嫁に出したくないのです。自分自身が、散々苦労してきたからです。お母さんが「農業やんなくてもいいから、町に勤めに出てもいいから、ウチに嫁に来て・・・」と、拝み倒してもなかなか上手くいかないようです。家庭菜園程度なら、農業ってホントウに楽しいのですが・・・。                          
                       (2010.10.3記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.25 (佐藤 一)
★小さい頃、三輪車で毎日、母の実家に通っていた
  写真は、現在の渇水期の最上川です。農業用取水などのために水量は減っていますが、かつては満面の深い川でした。私は、生まれてから小学校の四年生まで、父母や妹と共に最上川の旧舟着場に住んでいました。そこは旧建設省の用地買収に伴い、今は跡形もなくなっています。かつては、川の両側まで畑が迫っていました。それも堤防を造るために土をエグリ取られ、今は荒涼とした河川敷に変わりはてています。舟着場は、水運のための、現在の鉄道の駅のようなモノでした。昔はこの川を、荷物を積んだ舟が行き交っていて、純農村なのにそこだけ賑わっていたということです。店や酒場もあったかも知れません。私の祖母の実家は、大昔からそこでチョウチン屋を営んでおり、比較的裕福な暮らしをしていたようです。その後、大叔父一家は茅ヶ崎に引っ越して行き、空き家になっていました。私が住んでいた頃は、水運での輸送も鉄道に取って代わられ、すっかりサビれて2軒だけが、仕舞(シモタ)屋風に残っていました。

  うろ覚えですが、私が小さい頃、父が米沢から三輪車を買ってきてくれました。ようやくサドルにまたげる状態でしたので、三歳ぐらいだったかも知れませんし、それ以下だったかも知れません。最初は前輪のペダルに足が届かず、母に背中を押して貰っていたのも、かすかに覚えています。珍しいことに、全部ジュラルミンで出来た銀色の三輪車でした。多分、飛行機を作らなくなったので、ジュラルミンが余っていたのでしょうか。それとも、まだステンレスがなかった頃なので、サビないのを理由に、父が選んだのだろうか・・・とも思います。。戦後まだ物資が不足していた時代のせいもあって、地区で私以外三輪車を持っている子供は誰もいませんでした。たまに山麓付近の子供達が遊びに降りて来ると、羨ましがられました。普段はめったに人の来ない旧舟着場の広場で、毎日三輪車を乗り回して遊んでいました。五歳ぐらいで、二歳年下の妹に取られるまで、私の自慢の愛車でした。いつも 旧舟着場の広場を乗り回しているうちに、遠出したくなってきました。それで一時期、毎日母の実家まで三輪車で出かけました。雪が降るまで半年以上続いたと思います。最上川にかかる幸来橋を渡ると母の実家のある大塚村ですが、母の実家までの道のりは遠く、ジャリ道で2キロ近くありました。そこを晴れの日は毎日、三輪車をこいでコトコト通いました。バスの通る国道なのですが、途中自動車に会うことは滅多にありませんでした。

  大塚村というのは水田ばかりの所ですが、古墳が点在するところから、その名前が付いたということです。母の実家すぐ側にも、山のような土盛りがあり、テッペンに薬師堂が祭ってありました。そして毎年芝居小屋がかかったりして、盛大な祭りをやっていました。山栗など雑木がいっぱい生い茂っていて、いつもイトコ達との遊び場になっていました。母の実家は10人以上の大家族でした。大人は男二人以外は、嫁入り前の叔母さんたちなど女ばかりでした。そのせいか、広い玄関には恐ろしくコワイ犬が寝そべっていて、ニラミを利かせていました。すぐ鼻先にシワを寄せ、歯をむき出して低くウナるのです。吠えない犬の方が、どう猛でコワイのです。ですから、玄関の端っこを通って恐る恐る、中に入るのが一苦労でした。朝早く家を出て、夕方帰るのですが、雨が降ってくるとそのまま泊まり込んでいました。母の家系は多産系で、母の実家近くにも同年代のイトコたちが沢山いました。ですから、自分の村で過ごすよりも楽しかったのです。大家族で女性が多いためか、大の方のトイレが2つもありました。農耕用の大きな馬を飼っていて興味津々、馬屋によく見に行っていました。子供にとっては怪獣のような大きさで、近寄ると口をブルブルッとして脅かされていました。母の実家へは、小学生の頃まではよく行っていましたが、中学・高校生頃になると勉強も忙しくなり、殆んど行かなくなりました。

  その後、三輪車はイトコの家に貰われて行きました。イトコとその家の伯父伯母は早世し疎遠になってしまったので、その三輪車はもうどうなったか分かりません。今は幻の三輪車です。しかし、もう半世紀以上も経ち、
旧舟着場も跡形もなくなっているというのに、時々旧舟着場で三輪車を乗り回している夢を見てしまうのです。そこには、まだ若い(今は亡き)父母や小さい妹がいて、昔飼っていた犬や猫、ヤギがいたりするのです。そして、みんなこっちを見て、ニコニコしているのです。妹はまだ元気ですが、私が天国へ行った時、先に行った父母や犬猫やヤギたちが喜んで迎えてくれるかナ、などと思ったりします・・・。

     
                   (2010.11.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.26 (佐藤 一)
★梨郷村は、山菜や野草食材の宝庫だった
  今年の10月頃、毒キノコのことが話題になりました。農家の人が採ったキノコを直売所で売っていて、それを買って食べた人達が中毒になったというものでした。50年程昔は、こんなことは滅多にありませんでした。少なくとも農家の人か採ったものについては、あり得ませんでした。かつての農村では、現在のように野菜を含めスーパーで椎茸やエリンギを買うことなどなかったのです。全部自分で、山で採って食べていました。子供の頃からの知識で、毒キノコか否かの判別は土地の人なら誰でも出来ました。それでも分からないものは、食べませんでした。色や形、似たキノコはいっぱいあります。それぞれ、松林、雑木林とか生える場所も違います。単独とか群生とか、その時期とか生えている状況にも違いがあります。有名なキノコ以外、土地の人はその土地のキノコしか正確には分かりません。ハイキングの時など、都会の人が図鑑を見ながらキノコ狩りして持ち帰り、食べるのは危険です。実物を見て覚えなければ、正確には分かりません。同じようなキノコでも笠の裏の色や、匂いが全然違っていたりします。今の大人の人達は、高度成長期以降、農家の人でもスーパーで端境期の野菜や、養殖栽培の椎茸やなめこ等を買って食べてきた人達なのです。その方が手軽で、値段も安かったからです。それがお小遣い稼ぎにと、キノコを採って売ろうと思っても、慣れていないので、どだいムリなハナシです。

  私は中学生高校生の頃、山の側に住んでいたので、秋になるとよくキノコを採りに山に入っていました。もっぱら「国鉄の山」でした。山の切通しを鉄道が通っていて、崖が崩れないように、一帯の山を国鉄が買収し管理していました。西日が当たって、よくキノコが生えました。シメジも生えましたが、殆んどはハツタケでした。ハツタケというのは、薄茶色の笠に同心円状の模様のあるキノコです。梨郷村では見向きもされない雑キノコなので、いっぱい採れました。それを母がカメに入れて、塩漬けにしてくれました。多少味噌を入れた大根おろしに入れて食べると、なかなか美味しいのです。イクチタケもけっこうイケましたが、よく洗わないと笠の裏に微細な甲虫が入っている時がありました。梨郷村にもキノコ採りの名人達がいて、村の市場にマツタケを出品してしていました。マツタケは1本見つけると、周りにも沢山群生していて、笠一杯程も採れるのだと父が言っていました。深く積もった落ち葉などに隠れ、その最初の1本が見つからないのです。踏ん付けていても、気付かないといいます。私はよくキノコ採りに行きましたが、マツタケは見つけられず仕舞いでした。1度キノコが生えた場所は、その菌を残しておけば又生えてきます。マツタケが生える場所は、家族にも明かさないということです。キノコを採っていると、よくヤマカガシに出会いました。首のところに赤い斑点のある蛇です。昔は無毒の蛇ということだったのですが、近年毒蛇に認定された蛇です。噛まれたりしなかっのが幸いでした。

  私が子供の頃、田舎ではよく山菜や野草を食べていました。昔から、山国では飢饉などがあると、それらを食べてシノいで来たのでしょう。独特の風味のあるものが多く、なかなか美味しいのですが、味の個性が強すぎて料理法が限られてしまいます。アク抜きなど下処理が必要なものも多く、扱いは面倒です。やはり都会の皆さんが、図鑑片手にマネして採取し、食べては危険です。トリカブトに限らず、芹なんかでも毒芹というのもあるんですから・・・。春先雪が消える間もなく、野にナズナや小川に芹が生えてきて、それらを好んで味噌汁に入れて食べていました。ナズナは大きくなると、いわゆるペンペン草です。ちなみに、5月になると小川の芹は誰も食べませんでした。小川の芹には、5月になると蛭(ヒル)が卵を産みつけるということです。それが毒だと言われていました。ヨモギの新芽が畑に出始めた頃、ヨモギ餅をつきます。春先の野草はアクがないのて、摘(つ)み取ってきたばかりのヨモギを洗って、生のまま餅につき込みます。食べると口いっぱいに香りが広がります。東京で売っている大福のヨモギは、冷凍保存してあるモノでしょう。ヨモギの色だけで香りが殆んどありません(もしかしたら、合成着色料でしょうか?)。都会の皆さんに、ぜひ本物のヨモギ餅を食べて欲しいと思います。土手に生えている、スカンポも塩をふってサラダみたいにして食べました。梨郷村では、蕗(ふき)を畑に植えている家はありません。そこいら中に生えている蕗を、どこの家でも食べていました。畑に生える草も食べられるものが多く、帰省した時はこれを目当てに叔母さんの畑に行きます。そんな時は、あきれ果てる叔母さんの視線を尻目に、野菜なんて全然目向きもしません。

  私の好物の1つに、アカザというのがあります。必ず先の方の、折れるところから摘み取ります(より下部の、折れない所からムシリ取ると、筋が固くて食べられません)。それをユデて、ニワトリのエサみたいに細かく包丁できざみます。それに油で炒めた味噌を混ぜるだけです。それを熱々のゴハンに乗せて食べるのです。東京でも、家を取り壊して空き地になるとよく生えてきます。昔は、駒込も殆んどは畑だったからです。その時分にこぼれたアカザの種が発芽するのでしょう。見つけると見逃せません。早速摘んできては食べています。それからやはり畑に生える野草で美味しいものに、スベリヒユというのがあります。ユデて、ニンニク味噌あえにします。妹は1時期、家庭菜園でギボウシを植えていました。茎をユデて乾物にし、ゼンマイの煮付けみたいにして食べるのです。他にも野菜になり損ねたような野草が沢山あるのです。考えてみますと、「野菜」という意味も、本来、野(原)に生える菜っ葉という意味だったかも知れません。古い時代「摘み草」という習慣がありましたし、人類が定住するに従って、畑を作ってそれらを植え改良したものでしょうから・・・。今では東京のスーパーでも見かけるようになった、梨郷村特産の「オカヒジキ」は、かつて日本海岸の庄内浜に自生していた野草だったということです。それを誰かが、土壌が似ている、梨郷村の砂地に移植したのが始まりだと言います。近所で、屋敷近くの畑にイラクサを植えている家がありました。子供の頃、知らずに近道しようと半ズボンのままその畑をこいで、脚がハレ上がりました。イラクサは食用で、手袋をかけて摘み取る野菜です。

  キクイモなど、昔作物として作っていたものでも、今は作られなくなり、野草のように自生しているものもあります。反対に、昔は山にしか生えていなかったアケビの木は、移植してその実を特産として出荷しています。又、山形県ではヤマブドウが自生しています。真偽の程は分かりませんが、「岩の窪みに、サルが作ったブドウ酒」の話、なんて聞いたことがあります。私達が果物として食べているブドウやワイン造りのブドウは、ワインと共に外国から入って来た品種でしょう。山形で食べていたもので東京の人に食べさせると喜ばれるものに「打ち豆」があります。大豆を濡らして湿らせ、平べったくツブしたものです。ゼンマイの煮付けなど、煮しめ料理に入れると美味しいモノです。初めて食べた東京の人達は、意外な美味しさに驚きます。肉など食べなかった昔の人にとっては、大豆は貴重な(植物性の)蛋白源でした。消化のよくない大豆を、豆腐や納豆のみならず、いろいろと工夫して食べてきたのです。最近では、上野松坂屋などでも売っているようになりました。ちなみに上野松坂屋や東京駅の大丸ピーコックなど、他に鯉の甘煮(うまに)・塩鯨・イナゴの佃煮・山形特産焼き麩(ふ)・塩納豆といった、東北の食品がよく売られています。
                       (2010.12.1記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.27 (佐藤 一)
★旧舟着場のモミジの木は、三回引っ越した
  私が旧舟着場に住んでいて物心ついた時、屋敷の傍らにかなり大きな紅葉(モミジ)の木がありました。そのモミジの木は、秋の紅葉(コウヨウ)の時期と関係なく、春から秋まで、いつも鮮やかなエンジ色の葉で覆われていました。そして、若枝もエンジ色でした。その深紅(しんく)のモミジは、山形ではよく見かける園芸用のものでした。紅葉(モミジ)の語源も、ひょっとしたらコレかも知れません。そして私達は、紅葉(モミジ)と紅葉(コウヨウ)という言葉を混同しているようです。以前、神田に「紅葉屋」という印刷会社がありましたが、それを「もみじや」と読めない人もいました。その深紅のモミジは、庭木ではよく見かけしたが、山に自生している物は殆んど緑色だったと思います。他に山形では庭木に、エンジ色の葉と実を付ける、スモモの木をよく見かけました。そして、若枝もやはりエンジ色でした。熟したアンズ(杏)のように、秋だけ赤いのではなく、未熟な時からエンジ色で、実の中身も赤いのです。「赤ズモモ」と、言っていました。土壌が合わないのか、東京では全く見かけたことはありません。近くに店などない農村の屋敷には、子供のおやつ用に(?)、スモモ・アンズの他、柿・ナツメ・グミ・栗などいろいろな木を植えていました。ですから、田舎の子供は皆、木登りが上手でした。

  旧舟着場のモミジの木は、昔ちょうちん屋だったという家の前にありました。ちなみに、元ちょうちん屋は父方祖母の実家で、私が九歳まで父母や妹と一緒に住んでいました。家の前は商店らしく多少広場になっていて、その隅に燃えるような深紅のモミジの木が立っていました。そしてその先は崖下になっていました。そのモミジの木は幹の太さが20センチ以上ありました。50年経ってもその太さが殆んど変わらなかったので、モミジの木は成長が遅いのでしょうか・・・。そうだとすると、その園芸用のモミジの木は、随分昔に植えられたものでしょう。従ってちょうちん屋自体も、何百年も前からあったのかも知れません。その元ちょうちん屋の家は間口の広い大きな二階建ての家でした。4・5間ぐらいの間口全体に広い土間があって、ここが店先だったことがよく分かりました。私達が住んでいた時は店先の引き戸は全部締め切り、横の狭い通用口から出入りしていました。元々農家でなかったせいか、納屋などありませんでした。それで土間の一番奥を仕切って囲いを作り、ヤギを飼っていました。そして夜だけ犬をつないだり、いろいろに使っていました。父が餅をつく時も、ここにムシロを敷いてやっていました。土間から上がると、作業場兼店舗というカンジで、1階部分約半分の面積を占めていました。そして私の家に来た人が、このモミジの木に馬や牛をつないだりしていました。ですから長い間、多くの来客達もこのモミジの木を見上げて来たに違いありません。いつもマッカでよく目立ち、訪れる人が皆、その立派さに感心していました。私が小さい頃、父が枝にブランコをぶら下げてくれたのを、覚えています。

  私が小学四年生の時、旧舟着場の家が建設省の用地買収に合い、山麓の大伯母(父方祖母の姉)の家隣りに、家を建て引越しました。そしてモミジの木も引っ越し、玄関前のトイレ横に南天の木と共に移植されました。父は自分の母の実家と共に、このモミジの木に愛着があったのでしょう。しかし、移植のために多くの枝が切り落とされ、様子がまるっきり変わってしまいました。移植のためには仕方がなかったのでしょう。それに危機感を感じたのか、その後やたらと種を付けるようになりました。それと同時に、不思議な事に葉っぱの深紅が色あせてきて、しだいに緑がかってきました。枝を切られ過ぎて、木の勢いがなくなったようでしょうか。それとも先に述べたように、土壌のせいでしょうか・・・。その存在感もすっかり薄れて来て、父も母もがっかりしました。そして、訪れる人も、殆んど気に留めなくなりました。私が上京して7年くらい後、父は山間部の開拓地区に家を建てて引越しました。とても景色のいい所でした。父はそれを借景にして、かねてから念願の、坪庭ならぬ庭園を造りました。その際、やはり祖母に対する想いと重なったのか、このモミジを捨て切れなかったのでしょう。そして、庭の一番奥に移植されました。その頃には、深紅のモミジの面影はなく、殆んど緑色に近い、普通のモミジの木のようになっていました。ちなみに祖母は、旧舟着場ちょうちん屋の美人三姉妹(?)の真ん中(末が長男)で、3人目の子供を産んだ後、産後の肥立ちが悪く、数え年29歳の若さで亡くなったということです(他の姉妹弟は皆、長生きしました)。父の祖母への想いは、いつも感じ取っていましたので、無理からぬ事と思いました。

  父の死後、一人暮らしになった母は、この雪深く交通が不便な山間部の開拓地区を嫌い、梨郷駅の側に家を建てて引越しました。そして玄関前に、ネコのひたい程の小さな庭を造りました。そこには、このモミジの木が移植されました。やはり、父の所へ嫁に来て以来、ずっと見続けてきたモミジの木に愛着があったのでしょう。父が応召した後、新婚の母が旧舟着場の家で、一人心細く父の帰りを待ち続けた事など、思い出したかも知れません。そして、色あせすっかり輝きを無くしたモミジの木を見上げながら、母はどう思ったのでしょうか。その母も、すでに他界し父のもとに行きました。
そしてモミジの木は、いつの間にか枯れていました。移植のために、枝をすっかり落とされたことによって、木に力がなくなったのでしょう。現在では、打ち込んだ1本の太い杭(くい)のように、ただ立っているだけです。

     
                   (2011.1.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.28 (佐藤 一)
★母は、馬頭観音様を大切に祭っていた。
  私が小学二・三年生の頃から、母は馬頭観音様を祭っていました。その頃住んでいた旧舟着場の一角に、私の家の畑がありました。元は、舟着場関連の建物があった場所だと思います。そこから馬頭観音の、石の台座が出て来ました。そして、通りを隔てた隣家の堆肥(たいひ)場の底から、馬頭観音の石碑が出て来ました。事の経緯(けいい)は、母の信心深さにあります。母はよく、隣村の口寄せ(くちよせ)を訪ねては祖先の霊を呼び出し、そのお告げを聞いていました(「口寄せ」は、昔よくいた霊媒師のお婆さんです)。そしてそれを、生活の指針としていました。母は生来病弱で、農家に生まれたにもかかわらず、農作業が出来ずもっぱら家事を担当していました。実家は大きな農家だったので、他の8人の兄弟姉妹は全員元気いっぱい、野良仕事に精を出していました。そして他の姉妹は、皆裕福な農家に嫁いで行きましたが、母は農家の嫁さんになれませんでした。それに、おばさん達は全て20歳位で嫁ぎましたが、母は当時としては晩婚で、25歳で父のもとに嫁いで来ました。母の信心深さは、病弱で神仏にすがる以外にないという、気持ちの表れだったのかも知れません。そしてある時、体調がすぐれないので、例によって祖先の霊に伺いを立てに口寄せの所に行きました。

  そして、馬頭観音の台座と石碑のある場所を告げられたと言う事です。それまで目にしていた畑側の石は、馬頭観音の台座だとは思ってもみませんでした。「よく祭ってくれたら、丈夫な体にして守ってあげよう・・・。」と言われたそうです。舟着場が栄えていた頃は、界隈の荷役などに馬が沢山来ていたのでしょう。そして、最上川は急流ですので、舟のソジョウのため両岸に、曳き舟用の通路があったといいます。ですから、人足だけでなくそのために馬も使用していたでしょう。馬喰(ばくろう)がいて馬屋もあったかも知れません。そこで死んだ馬の供養をするために、馬頭観音の碑を建てて祭ったと考えられます。馬喰は、獣医も兼ねていました。やがて物資の輸送は、水運から鉄道に取って変わり、舟着場もサビれてしまいました。そのうち、馬頭観音石碑は洪水で押し流されるなどして忘れ去られてしまったのでしょう。お告げによって隣家の堆肥の山をどかしたところ、長さ1メートル程の石が横になって出てきたのです。塵を払ってよく見ると、馬頭観音の文字が刻み込まれていました。堆肥場というのは、藁(わら)をうず高く積み重ね、それに糞尿をかけて発酵させ、堆肥を作るところです。農家の人は、それを田畑の肥料にしていました。母はそれをきれいに洗い清め、台座と共に屋敷内に移しました。石碑は、台座の窪みにピッタリ納まりました。

  そして決まった日に旗を立て、赤飯等そなえ物を上げてお祭りをしていました。家が引っ越すたびに、馬頭観音の石碑も、母と共に引っ越していました。周りには、いつも花を植えたりして、きれいにしていました。母は子供の頃から病弱で食が細く、大人になっても子供用の小さなお碗で、ご飯を一膳しか食べられませんでした。胃潰瘍で胃に穴が開き、大手術をして一年ほど入院をしていました。ひどく痩せていて、胃の薬のみならず、頭痛薬「ケロリン」はいつも手離せませんでした。しかし私が中学生の頃には随分と丈夫になりました。私も元々病弱な痩せた子供でした。そして中学生の頃、よけい体調が悪かった時がありました。母は口寄せの所に行って、お告げを聞いて来ました。なんでも、少し前に死んだ飼い犬の霊が、私のことを気にかけていて、いつも回りから離れないからだ、ということでした。その犬は最初に引っ越した屋敷内で、馬頭観音の横に、父の手によって葬られました。しかし、成仏(?)出来ずにいたということでしょうか?母はお告げに従い、半紙に墨で犬の絵を描いて馬頭観音の石碑に貼り、祈祷をしました。私は、私に一番なついていた犬が悪さをする筈がないと思いつつも、「お前のことは、いつまでも忘れないから安心して・・・」と心の中で、語りかけました。その後私の体調も回復したので、母はゴリヤクがあったと喜んでいました。父は迷信は一切信じていない様子でしたが、家のことは全て、母の気の済むように任せていました。

  父の死後、車を運転出来ない母は、交通の便利な駅の側に引越しましたが、その最期に住んだ屋敷には、馬頭観音の石碑はありませんでした。高齢の自分の死後、馬頭観音様が粗末に扱われるのを懸念したのでしょう。母を知る私や妹家族はともかく、その後のことになると分かりません。なにしろ、旧舟着場で母が係わるまでは、しばらく堆肥の下に放置されていた訳ですから・・・。それで、別の由緒ある馬頭観音様の所にお願いして、合祀して貰ったということでした。
                       (2011.2.1記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.29 (佐藤 一)
★私は小学三年生頃までオネショをしていた
  恥ずかしい話ですが、私は小学生になるまでオネショウをしていました。小学校に入る前は、週に二・三回の割合でしょっちゅうやっていました。そして、小学校に入ってからも時々やっていました。その瞬間は熟睡していて、全然その意識はありませんでした。朝目覚めてみると、お尻の下のフトンが濡れているのです。父母は怒りはしなかったのですが、寝る前は水を飲まないようにと、いつも言われていました。朝しばらくすると、庭のモノホシに私の敷布団が掛かっていました。二つ歳下の妹は、それをニコニコしながら眺めていました。妹は、全然オネショウはしなかったのです。旧船着場に住んでいた頃で、家は二軒しかなかったので恥ずかしいことはなかったのですが、自己嫌悪に陥っていました。特に母親の実家に泊まり込んでやってしまった時には、とても落ち込みました。母親の実家には、同い年のイトコがいたからです。その上、10人以上の大家族。誰も何も言いませんが、全員からチラチラっと見られる視線がとても気になりました。そして子供ながらに、自尊心がとても傷ついていました。

  最近の子供は、オネショウしないのでしょうか、全然話題にもなりません。昔は、干したフトンに「地図」が描かれたマンガをよく見かけました。それに、大人でもオネショをする人が結構いたのです。有名な話では坂本竜馬とか、他に私達がよく知っている著名人の中にも結構いたのです。衛生兵だった父の話によると、兵士の中にも時々いて、用心のため一升ビンをオチンチンに取り付けて寝たという話でした。朝、ボッキして抜けなくなることはなかったのでしょうか・・・女性の読者の方、スミマセン!そして父によると、赤ん坊の時にオシメをマメに取り替えずに濡れたままにしておくと、夜尿症になってしまうんだと言っていました。今は布のオシメを使わず、濡れない紙オムツなので夜尿症はいなくなったのでしょうか・・・。小学生の時、授業の合間に先生が話したことがありました。先生と言えども時々、ウソとも冗談ともつかない話をすることもあるので、本当のことかどうか定かではありません。確か小学六年生の女の子の話だったと思います。修学旅行中、朝オネショウしたことに気が付いたというとです。そして、二階の窓から飛び降りて亡くなったということです。修学旅行に行ったということは、オネショはしばらくやっていなくて、もう治ったと思っていたか、それともその時だけ偶然やってしまったのかは分かりません。女の子に限らず本人にとっては、ショックだったのでしょう。その後、イジメの対象になると考えたのでしょうか・・・。優等生などプライドの高い子だったら、とても耐えられないでしょう。

  私は小学校に入っても時々オネショをしいていたので、何とかしなければイケないとヒマさえあれば考えていました。そして確か小学三年生の時、自分自身で克服しました。不幸にも参考になさる必要のある方や、そういうお子さんをお持ちの方は、参考になさってください。私の経験からしますと、だいたいオネショをした時は、トイレでオシッコをしている夢を見ていたことに気が付きました。いわゆる立ちションです。それでなかなかオシッコが出てこないような夢なのです。その時に、直前に気が付く方法はないかと考えたのです。しかし、夢を見てることに気が付くなんて、いささかムリなハナシです。そこで考えました。思いっきり痛い程、カッと目を見開けば、目が覚めるんじゃないかと・・・。それで、トイレでオシッコをするたびに思いっきり目を見開くことにしました。ホントに目が痛い程です。毎日毎日オシッコをするたびに、必ずそれを実行して習慣付けました。そしてある時、トイレで思いっきり目を見開いてオシッコをしようとした時、そこはフトンの中だったのです。つまり、直前で目が覚めたのです。「やった!」と、思わずうれしくなりました。それ以来、私はオネショをしなくなりました。でも、しばらくは不安で、カッと目を見開きながらオシッコをしていまいした。その後は、気がねなく外泊出来るようになりました。必要な方は、お試しくださいネ。            

     
                   (2011.3.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.30 (佐藤 一)
★私が子供の頃、梨郷村に幼稚園はなかった
  4月は入学式の季節です。私が小学校に入学した半世紀以上前は、梨郷村に幼稚園がありませんでした。多分日本全国の農村は、全てそうだったかも知れません。当然、当時の小学新入生は現在の新入生より、精神的に随分幼かったと思います。たいていは、ようやく自分の名前が、ひらがなで書ける程度でした。私が小学校に入学したのは、昭和25年だったと思います。私は早生まれの3月生まれなので、殆んどの同級生は一歳年上でした。この時期一年近くの体格の差は大きく、私は一番小さかったと思います。名前の読み書きが出来ないと、机の上に貼ってある自分の名前も読めませんし、自分の席も分かりません。母の猛特訓を受け、必死で練習しました。しかし、時々「さとう」が、「ちとう」になっていました。漢字なんて、「藤」の字が字画数が多過ぎて難しく、最初から諦めていました。中には「青っぱな」を垂らしている子もいました。青っぱなは、病気ということでした。当時、衛生状態はあまり良くなかったのです。そして、授業中お漏らしする子もいました。トイレに行きたいと言えず、我慢していたのでしょう。突然大声で泣き出す子がいたりで、今の幼稚園児と比べても随分遅れている感じでした。

  小学校に入学するまでは、学校に上がるのを毎日楽しみにしていました。戦後5・6年しか経っていないので、物資がありません。ランドセルは、皮製のはなく、帆布製かベークライトでした。もしかしたら、あったのかも知れませんが、私は見たことはありませんでした。私のは、帆布製でした。いつも、学校に持っていく用具を毎日見ながら、入学するのを楽しみにしていました。小学校までの道のりは遠く、3kmくらいありました。小学一年生にとっては、気の遠くなるような距離でした。朝登校する時は、近所の上級生なども一緒に歩いて行きますが、下校時は終業時間が違うので同級生とだけの小人数でした。それも家が近い順に、一人減り二人減りで、一番家が遠い私は当然最後の一人でした。もっと遠い所に、戦後満州などから引き揚げた人達が入植した開拓地区がありましたが、私のクラスには、開拓地区の子供はいませんでした。家まで遠いので、道草を食って帰ると、帰宅は夕暮れなってしまうのもたびたびでした。途中、子供にとって道草を誘う材料には、事欠きません。結局、母親に怒られてしまうのです。自転車なんて一家に一台の時代ですから、当然歩きばかりです。その自転車も大人用しかありませんので、3年生ぐらいにならないと乗れません。

  そんな訳で、小学校に上がると間もなく、こんな田舎はイヤだと思ってしまいました。しかしズル休みしたことはなく、小学4年生の時は皆勤賞をもらいました。もちろん、無遅刻です。不思議なことに、遅刻して登校する子は、学校近くの子ばかりでした。こう申しますと、元気一杯の腕白坊主のようですが、決してそうではなく、病弱で非力なおとなしい子供でした。そして、小学校のクラスでは、いつもイジメられてばかりいました。しかし、両親や親戚からは、とても可愛がられて育ちました。ですから、親戚の多い隣村の大塚小学校に転校したいと、いつも思っていました。その大塚小学校は母の通った学校で、旧舟着場の川向こうすぐの所にあったのです。家が2軒だけの旧舟着で育ったせいか、大勢でワイワイ遊ぶのは好きではなく、一人で本を読んだり、絵を描くのが好きでした。絵の方は、父方の祖母の実家がちょうちん屋で、ちょうちんに絵を描いたりして、その血を引いたらしく、父も私も絵が得意でした。小学2年生ぐらいで、すでに父から遠近法を教わって実践していました。後に私は、長く挿絵画家をやっていました。所で、先に述べましたように、私が小学校に入学したのは戦後すぐのこともあって、物資がなかったせいばかりでなく、生活様式もまだ戦前戦中の風習を引きずっていました。

  足元は、靴を履いている子供は少なく、下駄や藁草履(わらぞうり)を履いている子が大部分でした。靴はあっても、質の悪い、帆布製のズック靴が殆んどでした。藁草履は、すぐにすり切れてしまうで、大人から教わって自分でも作りました。学校の下駄箱に入れておくと、自分でせっかく作った物が、ボロボロのやつと取り替えられていました。その後、ゴム草履が出来て、農家の大人にも子供にも大流行しました。生ゴムなので耐久性があり、見た目は藁草履風のデザインになっていました。盗まれたり、取り替えられられたるするとイケないのて、上の面真ん中あたりに焼きゴテで、屋号を押してありました。ちなみに、焼きゴテは現在あまり使いませんが、下駄や道具など、他人(ひと)のものと区別するために、よく使われました。アメリカの西部劇映画では、牛に焼きゴテを当てるシーンがよく出て来ます。服装は、綿の学生服を着ている子が多かったのですが、着物にタッツケ袴の子もいました。特に風邪を引いた時などそうでした。下着として、大人の男性はフンドシをしめている人が殆んどでしたが、さすがに、フンドシをしめている子供はいません。しかし、水泳用の、黒い子供用フンドシはありました。越中ではなく、どちらかというとサポーター風の形でした。男の子の下着は、白のトランクス風サルマタですが、夏などは上半身ランニングシャツで、下着のまんま遊んでいました。

  そのパンツには、シラミが付いていたりしていました。ちなみに、シラミや蚤(ノミ)は普通にいて当たり前で、よく見かけました。ですから、いつも体のどこかがかゆく、いつもボリボリかいていました。何度か、小学校の校庭にクラスごとに集められ、全員消毒されたことがありました。、えり首のところから洋服の中に、DDTの粉を吹き付ける用具を差し込まれて、体中にまかれました。髪の毛も真っ白です。DDTは当時使用されていて、アメリカで発明された画期的な農薬でした。猛毒なので、やがて使用禁止になった殺虫剤です。
                       (2011.4.5記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.31 (佐藤 一)
★今考えると、隣のお姉さん達は美人だった
  私は、生まれてから小学四年生まで、旧舟着場に住んでいました。昔栄えた旧舟着場も、隣と二軒だけになっていました。その二軒は、洪水を避けた山麓の集落からは、かなり離れていました。ですから子供の私は、殆んど旧舟着場だけで生活していました。隣は、お婆さんとその娘二人と、息子夫婦と孫二人の七人家族でした。お婆さんの旦那さんは、私が生まれる前になくなっていました。お婆さんと言っても、本当は五十歳以下だったかも知れません。なにしろ、その人の末っ子は、私より三・四歳上のお姉さんでしたから。孫二人は、私が小学校入学前後に生まれました。隣は農家でしたが、舟着場だった頃はお店をやっていたのでしょう。上品な感じのお婆さんで、若い頃は美人だったと思います。ですから、今考えると、娘二人も美人でした。上のお姉さんは、私が物心付いた頃はもう大人で、農業をやっていました。そして程なく、お嫁に行きました。隣は、旧舟着場の通りを挟んだ家の前に男子トイレがありました。その上のお姉さんは、よくそれにまたがり、こちらに白い大きなお尻を向けてオシッコをしていました。人も殆んど来ない旧舟着場ですし、こっちは小さい子供なので、気にすることなく平気でしていました。私も、いつも見慣れていて、何とも思いませんでした。そのお姉さん、名前も覚えていませんが、農家にお嫁に行ったと思います。末っ子のお姉さんは、時々ママゴトをして遊んでくれました。

  旧舟着場から山麓の集落まではかなり離れていたので、沢山いた集落の子供達と遊ぶことは、全くありませんでした。二歳下の妹とも時々遊びましたが、遊びの好みやそのテンポが合わず、圧倒的に多いのは三輪車を乗り回すなどの一人遊びでした。サビれて誰も来なくなった旧舟着場の、広場のような通りで、毎日毎日、一人で三輪車を乗り回していました。その三輪車を、仕方なく妹に譲ってからは、やがて飼った二匹目の犬や、ヤギと遊んでいました。洪水の多い最上川の川筋を直すために、掘り替えた残土の山(ホリケヤマ)が家の裏の川べりにありました。高い樹々や草がうっそうと生い茂っていました。その木陰にヤギがつないであり、二匹と一人とでいつも遊んでいました。そして、私はしきりに彼らに話しかけていました。犬はこっちをじっと見ながら小首をかしげる様な仕草をするし、ヤギはよく頭を連続して縦に振ります。ですから、うなずいているように見えるし、話が通じているような気がしていました。犬は拾い食いする時もありますが、だいたいは決まった時間にエサを食べます。しかし、ヤギはいつも草を食べてばかりいます。そして、その辺り草ばかりなのに、人が草をむしって差し出すと、喜んでこっちへ来てそれを食べます。そして牛もそうですが、アゴからノドにかけてナデテやると、首をそらして喜びます。ちなみに、ニワトリや牛など、いつも食べてばかりいる動物は、食べ物の栄養価と共に、消化吸収が悪いのかも知れません。

  旧舟着場から山麓の集落にかけては、一面桑畑ばかりでした。大きな桑の木が沢山植えてあり、その木の下は決まって豆畑になっていました。桑の木には、甘い桑の実がびっしり生っていていました。子供の私は、その実をもいでは酢の空き瓶に入れ、棒で突っついてジュースにして飲んでいました。夏になると、桑の木の幹には、油蝉(アブラゼミ)がいっぱい止まっていました。そして、下の豆畑の葉っぱには、セミの抜け殻がいっぱいくっ付いていました。セミは、ゆっくりゆっくり気付かれないように木に近づき、パッと素手で捕まえられました。子供の頃はいくらでも面白いように取れました。しかし、大人になってからは、不思議なことにすぐに逃げられてばかりで、全然取れなくなりました。やがて、桑の枝葉を刈り取る作業効率からか、丈の低い桑の木が畑一面に植えられました。その低い桑の木には、桑の実は生りませんでした。多分、若木には実が生らないのでしょう。旧舟着場周辺には、普通の作物を植えた畑もありました、少ないながら、私の家の畑もあり、母が手入れをしていました。母の実家は大きな農家でしたが、生来病弱だった母は農作業はあまり得意ではありませんでした。ですから、旧舟着場周辺のネコのヒタイほどの畑がちょうど良かったのかも知れません。それでも、親戚は農家ばかりでしたので、売り物にならない果物や野菜など貰い物が多く食べきれない程でした。

     
                   (2011.5.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.32 (佐藤 一)
★梨郷村の生活は、エコロジーそのものだった
  ページトップの写真は、「梨郷村写真集」NO.2の家です。10年ほど前、取り壊されようとするところを写真に撮りました。以前の写真では、トタン屋根になっていますが、元は茅葺(かやぶき)屋根の家です。ちなみに、茅はススキです。旧梨郷村の家は、お寺や神社も含めて殆んど茅葺屋根でしたが、その葺き替えが困難になってきたのです。一戸あたり60年に一度、地区の人が総がかりで行わなければなりません。地区の高齢化のみならず兼業農家も増え、人手も揃いません。又、茅葺屋根が少なくなるに連れて、その技術の継承も難しくなってきたのでしょう。一方、家そのものは頑丈に出来ていて、百年以上は持ちます。簡便なトタン板が普及するに従って、次々にトタン板に葺き替えられてきたのです。そして、火災事の、類焼を避けるためもあったのです。この家でも、何世代に渡り多くの人が生活し亡くなり、また巣立って行ったことでしょう。まだまだ充分に持ちそうな家ですが、やはり便利な生活を求めて、建て替えることになったのでしょう。江戸時代以前は製鉄技術の関係で、大量の鉄や金属を作ることは困難でした。ですから、子供の頃残っていた水車やその歯車の残骸も木で出来ていました。稲作中心の生活ですから、藁(わら)で出来ている物も多く占めていました。昔は時代の変化が遅かったので、多分古代から戦前に至るまで、そんな生活は殆んど変らなかったと思います。

  先ず、ムシロを多用していました。ムシロは敷物としてだけではなく、万能というカンジでした。ムシロ旗というくらいで、ムシロは農家を象徴するようなモノでした。昔の庶民の家は、畳の部屋は少なく、床は板張りの上にゴザを敷いていました。その下にクッションのために(?)ムシロを敷いていました。と言うのも、イロリ端は、薪(まき)が燃える時、燃えカスがパチンパチン跳ねて来ます。それを指先で拾ってさっとイロリに返すのですが、どうしても焼け焦げの跡が出来てしまいます。ですから、畳敷きにしないのです。茶室が畳敷きなのは、完全にオキた炭火は跳ねてこないからでしょう。ちなみに作業小屋や納屋などは、土間にムシロを敷いただけ、というのが殆んどでした。穀物を脱穀する際には、ムシロを敷き詰めて作業をしていましたし、味噌球や干物を作る時などの他、多くをムシロの上で作業していました。又、ムシロを二つ折りにして、ヘリを縄でカガって袋状にし、穀類やイモなどの当座の入れ物としても使っていました。「カマス」と言います。お米の籾(もみ)など、遠方の輸送に耐えうる入れ物としては、俵(たわら)がありましたが、農家の簡便な入れ物としてカマスは重宝していました。村祭りなど、よく芝居など見世物小屋がかかりました。そんな時は、周囲全体をムシロで囲ってありました。ムシロをぶら下げ、掘っ立て小屋やトイレの入り口の目隠しとしても使われていました。

  田んぼや畑など、農作業をする時、藁で出来た大きなお椀(わん)みたいなのが置かれていました。中に綿入れなどで包まれた赤ん坊が入っていて、エジコと言われていました。多分「嬰児コ」かも知れません。「コ」は、「どじょっこ」「ふなっこ」などと同じ接尾語でしょうか。農家のお嫁さんは忙しいので、子育てに専念する訳にもいかず、農作業の合間に赤ん坊に乳をやったりしていました。藁で分厚く編んでありました。そして、そばには犬が張り番をしてたりしていました。カラスにつっ突かれでもしたら大変ですから・・・。エジコは、私が小さい頃にはよく見かけたものです。田舎の駅や観光地の土産物売り場には、コケシなどと共に、そんな赤ん坊の入った小さなエジコの民芸品がよく売っています。ご覧になった時は、「ああ、コレか・・・」と、思い出してくださいネ。藁は暖かいので冬、敷布団の下に敷きました。そして、折りたたんでゴム長靴の底に敷いたりしました。それから、雨具の蓑(みの)も藁で出来ていました。他に藁は切り刻んで、牛や馬・山羊の飼い葉(カイバ・餌)になると共に、彼らの寝床の敷き藁にもなりました。確か小学五年生だったと思いますが、山形市付近の瀬戸物工房に社会見学で行きました。その帰り、ある村を通りかかった時、貸し切りバスの車掌さんが説明してくれましたが、その地方の屋根は茅葺屋根ではなく、全て藁葺き屋根でした。その地方では、茅が採れなかったのでしょう。

  私が子供の頃、梨郷村のトイレは全て汲み取りでした。農村では、その糞尿を畑の肥料にしていました。田舎では、大の方のトイレで、トイレットペーパーなど使っていませんでした。新聞紙や雑誌の紙を使用していました。手でクシャクシャっともんで、軟らかくしてから使っていました。江戸時代などもっと以前、紙は手スキの和紙だけです。それだけに紙は貴重品です。庶民はお尻を拭くのに紙は使えませんでした。なんでも、縄で拭いていたと言います。短い縄を沢山置いていて、各自一本ずつ消費していたとも言いますし、又は太い縄をぶら下げておいて、皆で共用していたとも言います。その辺のところは、どっちだか両方共なのかよく分かりません。共用するとなると、ヨソのオジサンも使う可能性もあります。なんだか、気持ち悪くなってきますネ。私が小学校に上がる頃、足踏み式の、縄ない機やムシロ編み機が出来て普及しつつあり、便利になりました。それでも農家の人は厳寒の冬中、藁仕事を毎日毎日、夜遅くまでやらなければなりませんでした。そして一年間に使う、ムシロや縄・俵など沢山の藁製品を、冬の農閑期に全て作らなければなりませんでした。童謡で「かあさんの歌」の、「おとうは土間でワラ打ち仕事・・・」そのまんまです。ペットボトルなどプラスチック製品のない時代です。用具といえば藁や草・木などで出来ていて、金属製品以外は殆んど自家製で、やがては土に帰るものばかりでした。
                       (2011.6.5記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.33 (佐藤 一)
★子供の頃、駐在所は怖い所だと思っていた
  ページトップの写真は、旧梨郷村の駐在所です。いつの間にか、おしゃれな物に建て変えられていました。まるで、観光地・軽井沢あたりの交番のようです。この急勾配(こうばい)の屋根だと、雪下ろしをしなくても済み、冬はラクでしょう。現在、雪国の家の屋根は殆んどトタン屋根です。カラフルなペンキを塗っている家が多いのですが、以前はコールタールで塗られ黒一色でした。茅葺屋根と違って、夏は屋根裏や二階の部屋等はとても暑いです。そのせいか、雪国以外の民家では、瓦屋根が多いようです。瓦屋根は涼しそうです。しかし、雪下ろしが必要な地域には向きません。大津波の被害に見舞われた太平洋岸の被災地跡をテレビなどで見ると、今だ未補修の多くの瓦屋根が映ります。積雪量が殆んどない地域では、瓦屋根の方が耐久性があり便利なのでしょう。

  旧梨郷村の駐在所は、梨郷小学校の校門付近にあります。校門前は交差点になっていて、その真向かい程にあります。私が村を離れてから、梨郷村で唯一交通信号が出来ました。多分、小学一年生の学習訓練用だったのでしょう。だった・・・というのは、最近帰省した時には、それがなくなっていたからです。小学生が町へ行った時、交差点で交通事故に合わないことを祈ります・・・。この駐在所や、梨郷駅駅員の子供達は、数少ない転校生でした。競争の激しい町の学校から来たので(?)頭のいい子が多かったのです。その子供達は短期間ですぐヨソに転校して行ってしまいます。ですから、同級会などの付き合いは全くありませんし消息も聞きません。村では、事件など殆んど起こりませんでした。少なくとも、村人の起こした事件は全くありませんでした。狭い村社会では、悪いことをしたら村に住めなくないます。そして、不名誉なことは、末代まで忘れてくれません。共同作業の多い純農村では、村八分は致命的です。治水などの共同作業から外されると、稲作農業はほぼ不可能です。啄木の「石持て追わるる如く・・・」のように、村を離れるしかありません。ちなみに、「村八分」の残りの「二部」をご存知でしょうか・・・?それは、火事と葬式です。火事は、類焼を防ぐためにも、消さなければなりません。葬式は昔は土葬だったので、死体をそのままにしておけば、疫病など衛生上よくありません。ですから、埋葬は不可欠です。

  まれに、村外の人が起こす事件がありました。他で殺された人が村の山に捨てられたり、ヨソの村のカップルが心中事件を起こしたり・・・などがありました。そんな時は、県警からお巡りさんや刑事さん達が来ました。現場は人目につかない、滅多に人の入り込まない沢などですが、事件があると見物(?)に来た村人でいっぱいになりました。第一発見者の多くは、山仕事の村人です。うわさが地域内にあっという間に広まります。事件現場は警察官が来てロープを張る前に村人でいっぱいになりました。近くまで行って、知っている人かどうか確かめたりするので、事件現場は踏み荒らされ、犯人の足跡などメチャククチャだったと思います。実地検証が一日中やっているのを、農作業そっちのけで(?)見ていました。普段の生活は平々凡々で、全く刺激がなかったことの裏返しです。まるで、「金田一耕助」の事件現場の風景そのまんまでした。ところで、私は駐在所のお巡りさんの顔を見たこともなく、全く知りませんでした。駐在所のお巡りさんは、当時一箇所に長く勤務しない規則だと言われていました。取り締まる側が、現地の人と癒着してはイケないという考え方です。それと戦後間もなくで、昔は「特高」に代表されるように、国家権力というのは時として理不尽で、怖いものだという風潮がまだ残っていました。それが子供心にも影響を及ぼし、私など気軽にお巡りさんに近づく気にはなれませんでした。

  人々が共に暮らしている訳ですから、農地の境をめぐるイサカイとか、祭りの時の飲酒もからんだケンカなどあったと思います。しかし、そこは村社会、地域内のことは警察沙汰にせず、肝煎り(きもいり)などが仲裁に入り、自分達で解決していました。江戸時代から、農村には五人組制度というのがありました。相互扶助という面もありますが、実は権力の側が考えた農民を縛るための組織です。いざこざを起こすと五人組組織全体に連帯責任を負わせ、足カセとしました。五人組みのメンバー一人のせいで、全員が打ち首になるるのではたまりません。たとえば、一人の野球部員が不祥事を起こすと、その学校は甲子園出場を辞退・・・なんて、おかしいと思いませんか?ですから、お上に知られる前に自分達で内々に解決し、攻めを逃れてきたのです。つまり、村社会は伝統的に外部に対して閉鎖的にならざるを得なかったのです。秀吉のように傑出(けっしゅつ)した人は別として、長いものに巻かれることによって、無事に生きてきた社会なのです。そのことが、古い体質が残る田舎に行くほど、子供達のイジメも起きる傾向にあるのです。子供達のイジメや差別などは、大人社会の反映です。子供は、大人の言動に敏感です。ある時期までは、大人の言動を手本にし真似ることによって、学習し成長して行くからです。突出した考えを警戒する風土では、ややもすると農村社会の発展を阻害し、停滞を招いてきました。ですから、都会の人で田舎暮らしをはじめようとする方は、その美しい風景だけに目を奪われてはイケません。

  実際、高齢化した各地の農村社会では、Uターン・Iターンの若い人の移住を歓迎していると思います。又、マスコミの発達した情報化社会ですから、昔とは考え方も徐々に変ってきていると思います。特に若い世代では、農村社会の新しい形態を模索し実行している人達もいるかも知れません。工業優先で、政治から見放された形の日本の農業です。テレビなどで見ていると、補助金に頼らず、自分達で考え実行しなければ何も変らないと思っている人が増えている様です。インターネットを利用して情報発信し、農産物を直販している農家もあります。やはり、革命を起こすのは若い力です。そして、命をつなぐ農業は、やっぱり一番大事です。全国の「梨郷村」が、各々個性的に発展して欲しいと思います。美しい日本の原風景としての「ふるさと・梨郷村」もです。

     
                   (2011.7.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.34 (佐藤 一)
★梨郷村の水子地蔵への想い
  ページトップの写真は、水子地蔵のお堂です。古くからここにあったようです。そして、水子地蔵は全国いたる所でよく見かけます。栄養状態が悪く医学が発達していなかった昔は、流産が多かったと思います。生まれて来られなかったわが子をふびんに思い、母親達が供養を重ねてきたのでしょう。生まれて来ても、半世紀以上前までは、乳幼児の死亡率が高かったと聞きます。一歳未満は、まだ免疫力が充分備わっていないからです。ですから七五三など、よくここまで育ってくれたという意味で、お祝いしたのでしょう。そのせいか、昔は沢山子供を産み育てました。それでも江戸時代など、平均寿命が短かったこともあって、人口は殆んど増えなかったといいます。私は二人兄妹ですが、農家では殆んどの家で子供が五人以上いました。ちなみに、母親の兄妹は九人でした。一方で、避妊方法も遅れていたようです。ですから一時期、既婚女性の子宮を手術で取り去って、子供を産めなくする方法が流行りました。今では、とても考えられません。

  私の父方の祖母は、三人目の子供を産んだ後、産後の肥立ちが悪くて亡くなったということです。昔の出産というのは、産婆さんが家に来て、五人組みのおばさん達の手助けを借りて出産したといいます。サルなど他の動物と一緒で、人間もかつては比較的無難に出産をしていたと思います。しかし農耕が始まり、食料が充分確保出来るようになるにつれて、胎児が育ち過ぎたりして出産が困難になってきたかも知れません。そして在宅での出産は、出血がひどくても、輸血もままならなかったでしょう。上の児二人は無事に出産し、三人目だったわけですから、その時はさぞかし難産だったのでしょう。祖母が亡くなったことで、その乳飲み児も亡くなってしまいました。墓碑銘には、「童女」としか刻んでありません。そして、まだ幼かった父とその妹の叔母は、別々の親戚に里子に出されたということです。その後四十二歳で祖父が亡くなった時には、父はまだ十五歳だったということです。牛や馬など、高度に家畜化された動物も、野生動物と違って、今や人の助けを借りて出産しています。

  私の母が病院で私を産んだ時、とても難産だったといいます。栄養を取り過ぎて、私が胎内で育ち過ぎたのかと思いましたが、私はクラスで一番と言っていいほど小柄でやせた子供でした。難産の原因は、他にあったのかも知れません。その反動でしょうか、妹の時はひどい未熟児だったといいます。確か私が小学四年生の時だったと思います。母は三人目の児を妊娠しました。私はもう一人、年の離れた弟か妹が出来て、一緒に遊ぶのを楽しみにしました。しかし体力に自信のない母は、以前の出産に懲(こ)りたらしく、産むのを断念しました。堕胎する時、母は隣村伊佐沢村の病院に、私だけ連れて行きました。小学生の私でも、いくらか心強いと思ったのでしょう。その病院は、私が生まれたという病院でした。家から一番近い、入院設備のある病院でした。ちなみに、私の村は無医村で、今だにそうです。私はその病院の廊下で待っている間、子供心に、生まれて来られずに死ぬ、その児がかわいそうでしかたがありませんでした。母も私以上にそういう気持ちだったに違いありません。帰り道、母は疲れている様子だったし、二人とも殆んど話をしませんでした。そして母の生前、そのことに触れたことは、互いに一度もありませんでした。

  母方の祖母は年取ってから、「観音講」なるものをやっていました。母もよく付き合って、一緒に巡礼など回っていました。そして、その際の唄をよく練習していました。左手に小さい梵鐘(ぼんしょう)の付いた器具を鳴らし、右手で打楽器風のものを打ち付けて、唄うのです。節(ふし)が「きやり」風の、なんだかわびしいいメロデイでした。内容は、親より早く死んだ(親不孝な)幼児は、賽(さい)の河原で石積みをさせられるというものでした。時々鬼達がやって来ては、その石積みを崩して行くと言うのです。そして、何回も何回も、石積みをやり直さなければならないというものでした。そんな時助けに来てくれるのが、お地蔵さんだということでした。「一つ積んでは母のため~♪、一つ積んでは父のため~♪」とかいって、よく唄っていました。他の内容の唄もあったと思います。こんな気分が落ち込みそうな内容の唄を、好んでよく練習していました。母はこれを唄いながら、産んでやれなかった児のことを考えていたに違いありません。地蔵菩薩、つまりお地蔵さんは子供の守り神ということです。
                       (2011.8.1記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.35 (佐藤 一)
★梨郷村の農家を見守ってきた、梨郷神社
  ページトップの写真は、梨郷神社わきの通りです。このあたりは実家から遠かったので、上京以来帰省しても全く行きせんでした。この写真は私のイトコが、撮って送ってくれたものです。数十年ぶりで見た風景はすっかり変っていました。以前は、細い砂利道しかありませんでした。今もそうでしょうが、この奥は、果てしない(?)山また山ばかりでした。なにしろ、梨郷村の七割以上は山ですから・・・。梨郷中学校の植林演習林があり、その又奥に梨郷小学校の分校がありました。生徒数が全部で十人足らずで、夫婦の先生が赴任していました。一般的には当時、同じ学校に夫婦一緒に勤務することはありませんでした、私はこの先には、学校の行事以外で行ったことがありませんので、二・三回しか行ったことはありません。住んでいる人も少ないので、バスも通っていませんし、公道は、村の途中で行き止まりになっていたと思います。しかし今はモータリゼーションの時代です。隣接する上山市などに抜ける道路は、整備されていると思います。確かこの道路に沿って、農業用水が流れているはずです。小学生の時分、この山奥に行った時、その小川沿いに昔精米に使ったと思われる、木製の水車が残骸として残っていました。この梨郷神社からの手前は置賜盆地に向かう、長い下り坂になっています。そして、その小川も盆地に向かって流れ、田んぼを潤(うるお)しながら、最上川へと注いでいます。昔、多分江戸時代のことでしょう。大雨が降った時、この川が鉄砲水となってあふれ、その土石流で流域の人が多数亡くなったということです。

  梨郷神社は古くからあった、梨郷村唯一の神社です。神社というのは、稲作の神事をつかさどる神様などを祭る所ですから、梨郷村に水田が出来た大昔からあったと思います。梨郷村の最上川流域には、口分田のはるか以前からから水田があったようです。そして、梨郷神社のお祭りは村祭りとして、小中学校を含めた村の運動会と共に、毎年盛大に行われていました。祭りは、毎年稲刈りが終わり、農作業が一段落する秋に行われていました。その時分は、決まって晴天が続くのです。境内には、ムシロがけの芝居小屋がかかり、沢山の露店が並びました。普段店など殆んどない梨郷村の子供達にとって、ブリキのオモチャなどを買える、絶好の機会でした。又、境内には、戦没者の名前を刻んだ招魂碑(しょうこんひ)が建てられており、出征の際は、必勝祈願をしたのてしょう。同じく境内には相撲の土俵があり、祭りの際は、村人有志による、奉納相撲が行われていました。相撲は本来、神事といわれています。力士となるのは農家の人二十人くらいで、毎年屈強な力自慢のメンバーがほぼ決まっていました。まだ若かった、佐藤本家のオジサンと母の妹の旦那さんは、その常連でした。そして時々、小学生でもそれと分かる、八百長をやっていました。毎年、賞品を一人占めすることはありませんでした。しかし誰も目クジラ立てることもなく、楽しんでいました。神様も、きっとそれも含めて、楽しんでいた(?)と思います。相撲も八百長もある意味、日本における村社会の伝統文化(?)なのかも知れません。弊害とされる談合・根回しも、やはりそうでしょう。それは元々、相手を思いやる気持ちにもツナガっていたのかも知れません。勝負に負けて打ちひしがれている相手の面前で、ガッツポーズをする欧米人の文化と、果たしてどっちがいいでしょうか・・・。

  梨郷村では、どの家にも仏壇と共に、神棚(かみだな)がありました。毎日離れた神社に参拝するのは大変なので、その代わりでしょう。神棚には、大黒様や達磨(だるま)さんの置物などと共に、社(やしろ)を形どったたニミチュアが乗っかっていました。元は、杉の白木で出来ていたものですが、イロリのススで真っ黒になっていました。農業は天候に大きく左右されます。人間の力に及ばない自然現象は、神様に頼るしかありません。ということで、農家の人は無意識に信心深くなります。農業にまつわる神事を大切にしていて、年間を通じて沢山行っていました。毎日朝食前に、仏壇と共に、ご飯とお茶を供(そな)えて、拍手(かしわで)を打ってお参りしていました。そして稲作の農作業の節目(ふしめ)には必ず餅をついて、時期の稲穂などと共に神棚に供えて、神様に感謝していました。又、神道は元々シャーマニズム的な宗教でもあるので、祈祷によっていただいてきた、お札(ふだ)なども、神棚に乗っていました。神棚は、子供には手の届かない高い所なので、何があるのか興味津々でした。いただいてきたお札で体を拭き、ワラ人形に背負わせて、最上川に流したりしていました。特に体の悪い所は、念入りに拭きます。そして、家内安全、無病息災を祈願します。医学が発展していない、何でも神頼みという時代からの風習です。祖先からの伝統を大切に守る形の農村社会でしたが、今はどうでしょう・・・。兼業農家が多くを占める現在の農村にあって、そういった風習がまだ残っているかどうかは疑問です。

     
                   (2011.9.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.36 (佐藤 一)
★小学四年生から、上京するまで住んでいた家
  ページトップの写真は、私が小学四年生から高校卒業直後、上京するまで住んでいた所です。西の秋空に向かって、シャッターを切りました。この線路の先には最上川の鉄橋があり、いつも利用していた西大塚駅があります。遠くに、新潟との県境にある飯豊連峰が見えます。遠くの山々の青さといい、その大きさと高さは、迫り来る大津波のような迫力でした。子供の頃、そんな気持ちでいつも見ていました。そして左側に500メートルほど下った所に、それまで住んでいた旧舟着場がありました。旧舟着場の家屋敷は建設省の用地買収に合い、住めなくなりました。それで、写真の黒いトタン屋根の家の、道を挟んだ真向かいに、家を新築して引越しました。最上川にかかる幸来橋や、隣村の遠くの方まで見渡せる、とても眺(なが)めのいい所でした。写真で車の見える左側の建物群は、まだありませんでした。黒いトタン屋根と周りの納屋など全部は、旧舟着場のそれまで私たちが住んでいた家から嫁いで来た、大伯母の家でした。通称「ハタヤ」と呼ばれていました。私の家の建築中は、大伯母の家の牛舎の隅を借りて住んでいました。その土間に急ごしらえのイロリを作り、ムシロを敷いてその上にゴザを敷いて、数ヶ月寝起きをしました。そして、そこで食事もしていました。慣れるまでは、牛の糞尿(ふんにょう)の臭いで大変でした。真夏ではなかったので、ハエも少なくてまだマシでした。

  家を建てた大工さんは、その少し前に母の実家を建て替えた、大塚村の大工の棟梁(とうりょう)でした。普段の作業の大部分は、いつも若い大工さんが一人でやっていました。そして、建前の時だけ大勢やって来ました。大工さんの棟梁というのは、教養もあって立派な人でした。昔ですから、尋常小学校を卒業するとすぐ、大工さんの見習いになったに違いありません。そして、忙しいにもかかわらず、夜など一人で勉強したのでしょう。建物の方角など、風水の知識もあり、祝いの唄も上手く、書道も上手でした。そして、経営にも長けていました。その頃の私は、大工さんになりたいと本気で思っていました。私の家が建った所には、以前私の家の畑がありました。その広さは、約1反(300坪)近くあり、途中から下がって行く傾斜地になっていました。通りに面した上半分を屋敷に、下半分の傾斜地を家庭菜園にしました。通りに面した西側に、少し離れて家が一軒建っていました。その家に朝日が当たるのをジャマしないように、通りからその家一軒分以上ずらして屋敷の南側一杯に寄せて建てられました。建坪が二十坪ほどありました。通りの側には、母の守り神(?)である、馬頭観音様の石碑が置かれました。その近くに、花が植えられ、食用菊や茗荷、根ワサビ等も少々植えられていました。

  私が中学生の頃です。夏休みに東京から確か小学一年生のイトコの女の子が、この家にやって来ました。そして、夏休み中家族と離れて、私たち家族と一緒に暮らしました。普段は暑いので、パンツ一枚かその上にワンピース一枚です。その少し前までは、田舎だったせいもあって、幼児は金太郎さんの腹掛け一枚でした。私はサルマタ一枚、母や妹は家の中では、シミーズ姿といった具合です。上京しても、東京オリンピック前後まで学生たちは、下宿では柄パン(今のトランクス風)一枚が当たり前でした。そして、冷房もない暑さに耐えていました。ところでそのイトコの女の子ですが、妹や近所の女の子と、たちまち親しくなり、ホームシックなど感じさせませんでした。私は、ちっちゃくてかわいいなと思っていましたが、十歳近くも離れた女の子を、どう扱っていいか分からず、あまり近づきませんでした。イトコの方も、遠慮していたのか、全然近くに寄って来ませんでした。話も全くしませんでした。やがて、田舎の子供のように真っ黒に日焼けして、東京に帰って行きました。いままで、毎日家の中を走り回っていたイトコがいなくなって、家族は皆、心にポッカリ穴が開いたような感じでした。後に進学のために上京し、そのイトコの家に一年間居候した時にはすっかり親しくなり、当時小学五年生になっていたイトコを自転車の後ろに乗せて遊び回っていました。

  私が上京して十年くらい経った頃、この家の東側に向いた玄関前に接近して、別の家が建てられました。写真の左側建物群がそうです。その結果、玄関を含めて家の大部分に、朝日が全く当たらない家になりました。この家所有の土地は広大で、おまけに家もまばらな過疎地にかかわらず、私の家に接近して建てられてしまったのです。それまで素晴らしかった風景の眺めも一変し、すっかり悪くなってしまいました。イサカイの好まない父は日照権はおろか、何も言わなかったのでしょう。玄関を開けると、いきなり視界をさえぎる高い建物による圧迫感です。帰省するたびに、「この家は、もうダメだな・・・」と、思っていました。それから程なくして、父は、山の開拓地区の入り口付近に家を建てて引っ越しました。そこからの眺めも、とても素晴らしいものでした。しかし、戦後まもなく他所から入植した人達ばかりで、親戚縁者は誰もいない所です。父のイトコもまだ健在だった今までの所と比べ、近所付き合いも薄かったと思います。
                       (2011.10.1記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.37 (佐藤 一)
★父の最後の現場は、白川ダムの工事現場だった
  ページトップの写真は、新潟との県境にある飯豊(いいで)連峰を臨む最上川流域です。その飯豊連峰からは、清流白川(しらかわ)が流れ下っています。そして、長井市付近で最上川に合流しています。30年ほど前、白川上流で大きなダム工事が始まりました。「手の子」という村で、山奥なだけに、野生の熊が出没する所です。当時建設省職員をしていた父の、最後の現場になりました。多目的ダムで、工事は何年もかかりました。建設会社関連の飯場は200人規模の一大プロジェクトでしたが、建設省(当時)の現地常勤職員というのは、賄い(まかない)のオバサンを含めて20人程度しかいませんでした。所長以下の大方は、建設省山形工事事務所在籍の職員でしたが、東京の本省から派遣された、ダム工事専門の技術者が常駐していました。建設省専用事務所は、住民移転で廃校になった小学校を利用していました。

  私の父は、幼い頃から苦労した人でした。父は大正三年に、農家の長男として生まれました。祖父は戦国時代から続いていたという旧家から分家しました。ですから、元々田畑は充分にあったに違いありません。佐藤本家の祖先は上杉の藩士として国替えし、梨郷村に開拓要員として土着したらしい。いわゆる、郷士です。外様大名の上杉藩は貧しい小藩になってしまい、藩士を充分養って行けなかったからです。祖父は何らかの理由で破産したようです。祖母が数え年二十九歳で、産後の肥立ちが悪くて亡くなった時、父はまだ幼かったといいます。妹と別々の家に里子に出されたということです。父は元あった家の近所に、妹(叔母)は先月号に出てくる大叔母(祖母の姉)の家に、それぞれ里子に出されました。それが幾つまでだったのか、詳しいことは分かりません。他家で遠慮しながら育ったせいか、二人共控え目な性格でした。その辺のところは、父は話したがらない様子でしたし、私もあえて聞きませんでした。祖父が四十二歳で亡くなった時、父はまだ十五歳だったといいます。もちろん、昔のことですから数え年です。

  父は小学校しか出ていません。学校の成績はどうだったか分かりませんが、祖母の実家ちょうちん屋の血を引いたらしく、絵を描くのが上手でした。ちなみに、私が小学生低学年の頃、父が遠近法を教えてくれました。ですから、私はその頃から既に、遠近法を駆使して建物を描いていました。父は小学校を卒業すると、近所にある大地主の作男の一人として働いていたようです。そこで行儀見習いなどもしたようです。そしてある時から、そこで寝起きし作男をしながら、希望して当時から行われていた最上川の河川工事の人夫として働いていたようです。最上川流域は、古来から常に洪水に悩まされてきました。明治以降、日本三大急流の一つとして、建設省(戦前は内務省)直轄の第一級河川になりました。ですから、近くの流域ではいつも護岸工事などが行われていました。そして私が小学生の頃までは、建設省が直営で工事をしていました。つまり、建設省の日雇いという形です。農家の人も次三男など働きに出ていましたが、農繁期もあり常時は働けません。父は大地主の家から、弁当を作って貰って常時出ていたようです。兵役を挟み、結婚し独立して旧舟着場に住むようになってからも、農地も殆んど持っていない父は、相変わらず工事現場の日雇いで働いていたようです。他に条件のいい仕事のクチがあっても、貧しい中で育ったせいか、慎重で冒険出来ない性格だったのです。子供の頃、祖父の没落を見ていたのもあったかも知れません。

  まだ若くて実直な父は、公務員である現場監督に目をかけられ、補佐役のような仕事に就いたようです。そして、仕事の段取りや工程管理など教わったようです。身分は、公務員に準じた、臨時雇いの「補助員」というものでした。私が小学校に入学した頃、近くで最上川の堤防工事が始まりました。国家事業のせいもあって、大きな建設機械を沢山導入した大がかりな工事でした。当時チマタでは、まだ自家用車も殆んど見かけない頃です。何台ものブルトーザーや掘削機械、トロッコを引く数台のジーゼル機関車等々・・・。トロッコの木の部分を作る、専門の大工さんもいました。その大工さん、私に絵を描くための三脚を作ってくれました。私が中学生になった頃、工事は建設省直轄でなく、民間の大手建設会社の入札で行うようになりました。沢山の機械や機材などは、全て民間会社に払い下げになりました。そして、それまで働いていた工夫は解雇されたり、下請け建設会社の作業員になりました。しかし、長年補助員として真面目に勤め上げて、知識と技術を習得した人達は、正規の国家公務員である建設省技官として再雇用されました。土工上がりの屈強な彼らは、飯場(はんば)の事情と、その処理に精通していました。父も、それまでの実績を評価されたらしく、再雇用されました。かつての上司で、公務員で現場監督だった人の推薦もあったのです。

  その後は、時々建設省支局のある仙台市などに出向き、専門的な講習を受けていました。そして、「英語が多いので難しい・・・。」と言っていました。その出張のたびに、お土産を買ってきてくれ、楽しみにしていました。子ぼんのうで、やさしい父でした。それからの父の仕事は、工事の進行や建設会社の工事状況のチェックなどでした。私が父から学んだことは、上杉鷹山(ようざん)公の言葉ならぬ、「何事も飽きずに続けていれば、そのうち何とかなる。」というものでした。父の最後の現場事務所となった所は、新潟との県境に近い「白川ダム工事事務所」でしたが、家からはかなり遠いところでした。冬以外は毎日、バイクで通勤していました。そして、出勤途上の真夏のある朝、交通事故にあって、帰らぬ人となりました。ちょうど、この写真の近くでした。

     
                   (2011.11.2記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.38 (佐藤 一)
★国鉄長井線、梨郷~西大塚間の危険な踏切
  現在は第三セクターの鉄道フラワー長井線ですが、私が住んでいた頃は、国鉄長井線でした。昭和の始め頃、奥羽線から分岐し開通しました。開通当初は、赤湯駅から梨郷駅までだったということです。その間の駅は、日本三大熊野大社の最寄り駅、宮内駅だけでした。つまり、梨郷駅はある期間終着駅でした。そのせいか、梨郷村には小さな村に似合わず、駅近くに大きな野菜市場がありました。その後、線名に因んだ長井駅を経て荒砥駅まで延長されました。その途中に、米沢駅から新潟県に通じる米坂線が連絡しています。荒砥から山形市までは近いのですが、山形駅まで鉄道が延長されることはありませんでした。かつて、最上川の港で栄えた長井市の人達にとって、山形駅までの開通は市発展のための悲願だったでしょう。しかし山が多く、工事費用の関係で止めたのかも知れません。そもそも、奥羽本線が長井市を通らなかった理由も、工事費用の関係もあったのでしょう。結局、長井市はサビれ、フラワー長井線も遅かれ早かれ、廃線になる運命でしょう。もしかして、当初は最上川の水運業者たちが、鉄道開通に反対したのかも知れません。なにしろ、最上川はそれまで県内の輸送を一手に担っていましたから・・・。写真の農家は、かつての豪農の屋敷です。駅からは遠い所です。鉄道が出来る以前は、このすぐ近くにあった梨郷村の舟着場から、多くの物資を積み出していたのでしょう。

  梨郷駅から西大塚駅間、特に西大塚駅寄りの路線は山に沿って走り、曲がりくねっています。ですから見通しが悪く、いきなり列車が飛び出して来るような状況になっています。それで、時々踏切や鉄橋上での人身事故が起きました。私も二回ほど、目の前で事故を目撃しました。子供の頃だったので、恐怖で脚がガクガクでした。この踏切も右方向は見通しが悪く、気が付くと汽車がカーブを曲がっていきなりやって来ます。ここでは、豆腐屋さんの軽トラックが、衝突の弾みで写真の家の前の田んぼに飛ばされました。幸い、稲の生育途中で、水の張られた田んぼに車から投げ出され、泥だらけになりながらも無事でした。そして、ケガ一つしていないない様子でした。しかし、言葉はしどろもどろで狼狽しきっていました。又、この踏切では、以前にも子供が列車の下に巻き込まれ、ケガをしたことがあると言っていました。幸い子供だったので線路との間に余裕があり、助かったということです。私より五六歳上のその人は、額にキズが残っていました。昔は、鉄道の運行を止めると、高額の罰金を取られると聞いていました。現在のフラワー長井線は一日六往復くらいですが、私が田舎にいた頃は朝五時頃から夜八時過ぎまで、毎時間客車が往復していました。他に熊野大社参宮の特別貸切列車などの臨時列車なども数多く運行していました。又、貨物トラックが殆んどない頃だったので、農産物などを運ぶ貨物列車がしょっちゅう通っていました。そして、冬は夜通しラッセル車が通ります。積雪が線路上に多くなり過ぎると、ラッセル車でも手に負えなくなるからです。

  西大塚駅手前に、最上川にかかる長さ三百メートル近い鉄橋があります。私たちの地域の人たちが西大塚駅に行くためには、その鉄橋を渡るしかない状況だったので大変でした。皆、列車が引っ切り無しに通る合間をぬって、急いで渡っていました。大方の人は、鉄橋の手前で列車が通り過ぎるのを待ってから渡っていました。それでも列車が遅れたりして、行ったと思った列車がまだ通っていなかったりで、事故が絶えませんでした。私も米沢の高校に通っていた時、朝夕その鉄橋を渡っていました。特に梨郷側から来る汽車は、やはり山間から突然飛び出して来るような状況だったので、風の強い日などは、いつも耳を澄ましていなければなりませんでした。保線区要員用の、三箇所ある退避場に間に合わず、河川敷に飛び降りて大怪我をした人もいました。鉄橋の高さは四五階のビルの高さくらいありますが、下に茅などが生い茂っていたために助かった人等々・・・。ある晩、父の同僚で、仕事帰り酒に酔って鉄橋を渡りました。終列車が通ったと思って渡ったのか、臨時列車が通ったのか分かりませんが、汽車に轢(ひ)かれ亡くなりました。多くの人が翌朝見に行ったということでしたが、私はとても見に行く勇気はありませんでした。死体が散乱し、血だらけだったということです。当時は戦争に行った人も多く、そういう光景も多少見慣れていたのかも知れません。消防団の人たちが総出で、散らばった遺体を回収したのでしょう。

  それから、私が小学五年生くらいの時だったと思います。下校途中の、別の踏切での出来事でした。西大塚側から来る列車の汽笛が、間近に聞こえていました。同級生と二人で、踏切を渡り終えて少し歩いた時でした。踏切に向かって小学一年生位の女の子と、そのお母さんらしき女性が歩いて行きました。私たちは、踏切の手前で汽車をやり過ごしてから、渡るのだろうと思って見ていました。しかし、そのお母さんは、女の子の手を引きながら踏切を渡ろうとするのです。実はその女性、聾唖(ろうあ)者だったのです。汽車が来る方向と反対側にいる女の子の方に顔が向いているために、列車が来るのが見えず気が付かなかったのです。女の子はお母さんの手を引っ張って、必死で止めようとしているのですが、そのお母さんには女の子の声も聞こえませんし、その意味が分かりません。そして、「聞き分けのない子だ・・・」という風な感じで、手を振りほどいて踏切を渡って行こうとするのです。しかし、女の子が必死で止めようとしたのが功を奏して、踏切に近づくのが遅れ、寸前で汽車が通り過ぎたために、ひかれずに済んだのです。ただ、蒸気機関車に着物の襟首を引っ掛けられ、その場に激しく倒されました。幸い、ケガもない様子で起き上がりました。その数十秒間、私たちは声も出せずにその場に立ちすくみ、何も出来ませんでした。しばらく停車した蒸気機関車とその親子を見ながら、なんとかすべきだったと悔(くや)みました。同時に、無事で本当によかったと思いました。やはり、脚がガタガタして震えが止まりませんでした。おそらく亡くなっていたら、一生後悔したでしょう。
                       (2011.12.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.39 (佐藤 一)                      
★私は生まれた時、鬼っ歯が生えていたという
  ページトップの写真は最上川に架(か)かる、三代目の「幸来橋」です。全長が200メートル以上あります。手前が梨郷側で、向こうが西大塚村側です。雪がうず高く積もっているので、分かり難いと思いますが、川面からはかなり高い橋です。初代の幸来橋は木製で、明治中期に梨郷村の旧家の尽力によって建てられました。私財と共に寄付金を募り、県にも財政的に働きかけた結果、かねてからの念願がかなったということです。しかし、いつの時代もよくあることですが、架設反対運動もあったということです。当初は、橋の通行料を取っていたといいます。二代目の橋は、私が生まれる十年くらい前に建てられ、鉄筋コンクリート製でした。しかし、欄干のざらついたモルタル仕上げなどから、石で出来ているように見えました。木製から鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられた経緯は、水害によるものかどうかは分かりません。なにしろ最上川は、日本三大急流の一つですから・・・。ですから、私が物心付いた頃は、まだ真新しい橋でした。写真の右端あたりに、私が子供のころ住んでいた旧舟着場がありました。両側のたもとの道路は急坂になっており、まるで大空に架かっているような高い橋に見えました。写真左側の水門のある堤防は、後に旧舟着場の家が建設省の用地買収に合い、立ち退きになってから出来たものです。橋が架かる前は鉄道もなく、物流の主役は最上川の水運でした。橋の向こう、つまり最上川の上流は左に蛇行しています。ですから、橋の向こうに見える林は西大塚側の街並み付近です。

  そこには、西大塚側の水運で栄えたと思われる街並みが残っています。そして、鉄道も通っていないその場所に、役場や診療所や小学校中学校もあり、今でも旧西大塚村の中心地です。ここからかなり離れた所にある西大塚駅周辺でも、ここ以上に発展することはありませんでした。ですから、梨郷村の対岸にも西大塚村の舟着場はあったと思います。西大塚村は、山が大部分の梨郷村と比べ、耕地面積が多く、しかも大部分が水田でした。ですから、豊かな村だったと思います。従って、舟着場から積み出す米俵も多かったでしょう。そしてその舟着場の規模も、梨郷村の舟着場よりは、はるかに大きかったに違いありません。私が物心付いた頃は、対岸に舟着場はありませんでした。しかし、舟着場に通じる立派な道路は残っていました。橋が架かった後は、水害で舟着場は放棄されたのかも知れません。水中には、古い木造の橋ゲタの残骸がいくつも見えました。三代目の橋は、私が上京後に出来ました。ちょうど、大阪万博の頃だったと思います。それまでの橋は道幅が狭く、車がすれ違えませんでした。ですから向こうから車が来ると、一方が橋のたもとで待っていなければなりませんでした。おまけに、そのための交通信号もありませんでした。時代と共に交通量の変化も早く、もう限界だったのでしょう。ちなみに、私が小さい頃はバス以外の車は通らず、梨郷村にある自動車は唯一、野菜市場の5トン・トラックだけでした。荷馬車はよく通っていて、砂利道にはよく馬糞(ばふん)が落ちていました。国道の馬糞をリヤカーで拾い集め、清掃して歩く人もいました。いずれの橋も、ほぼ同じ場所に出来ました。

  私が旧船着場で生まれた時、正確には隣村伊佐沢村の病院で生まれたのですが、その時私には「鬼っ歯」が生えていたということです。鬼っ歯というのは、生まれた時すでに生えている歯だそうです。昔からの迷信で、忌み嫌われていたということです。そこで、古くから田舎に伝わり、行われていたという(?)儀式をやったそうです。赤ん坊の私を木のタライに入れて、幸来橋の上流から流し、橋の下流で拾い上げたのだそうです。お札(ふだ)などを貰って来て、まじないや祈祷(きとう)もしたかも知れません。ですから、私は鬼っ子(?)として、一旦は最上川に捨てられたという形になったのです。小さい頃それを聞いて、酒飲みの父がうっかり拾いそこなっていたらと思うと怖くなり、大変悩みました。なにしろ、最上川の流れが急なのをいつも見て育ったものですから・・・。その後、そういう行事を行ったという話は聞きませんので、私が最後だったのかも知れません。もしかしたらそれ自体、母が好んで通っていた、イタコのお告げだったかも知れません。神様のご加護を考えて、神聖な川で厄落とし・・・という事だったのでしょうか?その後の私はというと、母方の祖父から親戚中で一番立派な名前をいただき、期待を一身に集めて育った割には名前負けです。しかし、写真の雪景色をご覧になると分かると思うのですが、冬の雪下ろしがイヤで、田舎に帰りませんでした。その雪ですが、小さい頃は季節もカレンダーも分かりません。ある朝起きて、初めて雪景色を認識した時にはびっくりしました。

  最上川は急流と洪水のせいで、川岸が絶えず削り取られ、よく流れが変わりました。ですから、しょっちゅう護岸工事が行われ、それが尽きることはありませんでした。今でこそ川岸をコンクリートで塗り固めていますが、昔は柴(しば)を使っていました。川岸に杭(くい)を打ち込み、その内側にカズラで束ねた生木(なまき)の柴を積み重ねます。そこから根っこが生えて絡(から)み付き、川岸を丈夫にします。水辺に強く、育つ木といえば柳の木などです。ヨーロッパの田舎の運河などで見かける、自然に溶け込むやり方です。効率重視のコンクリートなどより、よっぽど環境にやさしいものです。そんな川辺には猫柳の木がいっぱい生えていました。工事に使った柳の生柴から芽吹いたものです。その様な護岸のせいか、魚がいっぱい住み着き、時々村人が漁をしていました。毎朝出勤前に釣りをしている、小学校の教頭先生もいました。コンクリートで固めた護岸では、魚が産卵出来ません。母は春先、残雪の川辺から猫柳を刈り取って来ては、花瓶に生けていました。花屋などない、雪に埋もれた田舎です。春一番の花だったのです。東京では、自生している猫柳など見たこともありません。もっとも、春先以外の猫柳の木は、見てもよく分からないかも知れません。

     
                   (2012.1.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.40 (佐藤 一)
★梨郷村の、雪に埋もれた暮らし
  写真は、雪に埋もれた梨郷駅のプラット・ホームです。駅名案内板の「おりはた」というのは、隣村・旧漆山村にある駅名です。「おりはた」は、民話「夕鶴」発祥の地、漆山村織秦の地名にちなんだ駅名です。漆山村には、叔母(母の妹)が嫁いでいて、そこの地名もやはり夕鶴に因んでいて、「羽付(はねつき)」という地名でした。梨郷駅は映画「スウィング・ガールズ」のロケに使われ、女子高生十数人が高校野球の選手達に弁当を届けに行く途中、下車した駅です。青い屋根の建物はそれを記念して(?)モダンなログハウス風に建て替えられたものですが、ロケ当時は旧駅舎でした。その写真で、屋根に見えるポチポチの出っ張り金具は、雪が屋根からこけ落ちて、人がケガをしないための「雪止め」です。

  旧暦の正月というと、梨郷村では雪が最も多く寒い時期でした。農家にとっては農閑期で、多少骨休みの時期でした。ですから、長い正月休みを取っていました。仕事といえば、もっぱら雪下ろしでした。昔の農村では藁(わら)で出来た物が沢山あり、その殆どを冬の間に作りました。ムシロや俵(たわら)・カマス・縄・蓑などの農具です。それらを冬の間に全部作らなければならないのです。正月休みが終わると、毎日毎日イロリ端で藁仕事です。土間に埋め込んだ丸く平べったい御影石の上で藁打ちし、細工しやすいように軟らかくしてから行います。童謡の「母さんの歌」の、「おとうは土間で、藁打ち仕事・・・」そのまんまです。暖かいイロリで、餅やスルメなど焼いて食べながらやっていました。正月明けの夜には、「サイトウ焼き」というのをやっていました。「祭塔焼」かも知れません。自宅近くの雪原に藁で大きな塔を作り、正月行事で神棚に備えた物などを一緒に燃やします。神聖な物は、ゴミ捨て場に捨てたりしません。農家のゴミ捨て場というのは主に、牛舎などから出る、糞尿にまみれた敷き藁を積み重ねた堆肥置き場だからです。そこに神聖な物を捨てたら、バチが当たります。川に流すか燃やすかのどちらかです。字が上手くなるように習字の書いた半紙を燃やしたり、無病息災を祈って体を拭いたお札(ふだ)を燃やしたり、餅を焼いて食べたりします。お父さんたちは、その火でキセルの刻みタバコを吸っていました。周囲のあっちこっちの家で、申し合わせたように同時にやっていましたので、決まった神事の時刻など、あったのかも知れません。どういう意味か分かりませんが、皆いっせいに「ヤハハイロ!」と何度も叫んでいました。

  テレビで、雪下ろし作業中の転落死を放送していますが、農村部では殆ど聞きませんでした。多分、住宅密集地や道路に面した住宅で起きている話でしょう。農家というのは野中の一軒家状態が多く、敷地が広く道路からも奥まっているせいか、余程のことがない限り考えられません。父が亡くなって、山の開拓地区の家に母一人で住むようになってから、私は一冬に何度も雪下ろしに行きました。金曜に上野発の夜行列車で行き朝着いて、土・日、目いっぱいやって、建坪五十坪程の屋根の雪下ろしと、周りの雪かきをやり、日曜の夜行列車で帰って来る繰り返しでした。雪下ろしをする場合、先ず屋根のテッペンまで登り、そこから角シャベルで雪下ろしを始めます。屋根から雪を下ろし終わる頃には、軒下が雪でいっぱいになります。屋根に登るにしても、晴天時に屋根からコケ落ちた雪が軒近くまでたまっているので、ハシゴなしで登ったり、二階から屋根に出ていました。確かに、雪下ろし中の濡れた屋根はツルツル滑ります。しかし、滑り落ちたところで、すぐ下は軒下近くまで雪です。転落死する訳がありません。屋根の雪を全部下ろし終わってから、軒下の雪をかたずければいいだけの話です。むしろ、軒下の除雪の方が時間がかかり大変でした。軒下にはプロパンのボンベがあったりします。又、次に屋根から落ちてくる雪のスペース分を確保するために、家の周り2メートル幅ぐらいずつ雪を掘ります。玄関の屋根は切妻になっているので、人の頭に直接落ちることはありませんが、横からの雪が沢山たまるので、玄関まで階段状に降りる形に掘り下げました。屋根の雪を下ろす前に、重機などで軒下の雪をかたずければ、地面やコンクリートがむき出しになります。そこに屋根から落ちたら大変でしょう。今は、農家にも小型の重機があって便利なのですが、要するに作業手順と段取りの善し悪しです。

  雪が降って喜んでいるのは、放し飼いの犬くらいのものでした。私の家の「ジョン」も、喜んで走りまわっていました。一説には、じっとしていると、寒くて仕方がないので走りまわっているという説がありますが、私のジョンは確かに喜んでいました。そして、嬉しそうに吠えながら飛び付いてきました。私が小学生の頃ですが、農村の大人の男性達は決まって、手ぬぐいでホウカムリして歩いていました。オバサン達は今でもそうですが、マチコ巻きをして歩いていました。一世を風びしたマチコ巻きですが、それ以前は防災頭巾みたいな、綿入れの帽子をかぶっていました。どちらも、吹雪(ふぶき)よけ、寒さよけです。服装は男女とも、着物にタッツケ袴にウールのマントです。男性は黒、女性はラクダ色のマントでした。子供達は、学生服の上に綿入れの半天を着て、その上からマントを羽織っていました。雪国では冬、誰も傘など差しません。湿った雪ではないからです。朝の通学時など、手袋をしていても手がカジカンで指の爪が痛くなります。ちなみに、「冷たい」の語源は、この「爪痛い」から来ていると聞いたことがあります。町から来る金持ち風のオジサンなどは、着物の上にトンビというオーバーコートを着ていました。ソリを引いた行商の人もいて、馬ソリもよく通っていました。国道はバスが通るので、チェーンの跡が付いたアイスバーンになり、そこでスケートをやっていましたが、チェーン跡のデコボコで、乗り心地はあまりよくありませんでした。雪国も沼などに氷は張りますが、その上に雪がうず高く積もってしまうために、スケートの乗れる場所は国道の他になかったのです。

  冬季は、鉄道もよく運休しました。米沢の高校に通っている時分、乗り換え駅などで遅れた列車を待っていると、10時過ぎになって、「〇〇高校の生徒さんは、本日ムリに登校しなくてもいいそうです・・・」などと駅のアナウンスがあるのです。特に山間部を走る米坂線は、豪雪のために一冬中一部運休なんてありました。その米坂線は昔、山間(やまあい)で蒸気機関車が雪に乗り上げ、谷底に落ちてしまったことがあったそうです。雪国では、夜通しラッセル車が除雪を繰り返すのですが、線路に雪が積もり過ぎると、ラッセル車でも除雪はムリになってしまい、人海戦術しかなくなると言うことでした。豪雪地帯の小国という、新潟との県境から通学していた同級生は、一冬中、鉄道運休ために米沢市内に下宿していました。昔雪国では、遠方から通勤している先生も、冬期間だけ学校近くの農家やお寺などに下宿していました。確か70年代でも国道が大雪で、冬中細い一本道になったことがありました。昔は旧道や村道は、冬細い一本道になるのは当たり前の話でした。そんな道は馬の背のように、ツルツルに踏み固められ、そこだけ脇より高くなっていました。
                       (2012.2.1記載)

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