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「りんごう村」
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.41 (佐藤 一)                      
★旧舟着場、父が空き缶に咲かせた福寿草の花
  ページトップの写真は、曹洞宗のお寺で建高寺といいます。ようやく、雪も消えて三月末といった風情(ふぜい)です。このお寺は昔、以前父が建てた、開拓地区入口付近の家の場所にあったといいます。村人から、寺山と呼ばれている所でした。すっかり松林に変わりはてた所を開墾すると、古い骨ガメが多く出てきました。昔、そこに建っていた建高寺が焼失して、この場所に移転したといいます。多分、江戸時代かもっと以前の話でしょう。元あった場所からは、かなり離れています。昔は干バツや冷害で、飢饉(ききん)が多かったといいます。江戸時代の天明・天保の飢饉の時なども、餓死者が出て浮浪者も沢山出たといいます。梨郷村は置賜盆地のヘリにあって山が多いので、木の実や山菜が豊かで野生動物もいます。飢えを防ぐには、格好の場所だったかも知れません。私の家のお墓がある本覚寺は、住み着いた浮浪者達による焚き火の不始末で焼失を繰り返したということです。古い火災による再建は、伊達氏の時代といいますから、室町時代でしょう。この建高寺の場合も、そうだったかも知れません。お寺の床下は高く、雪国の浮浪者が住み着くのに格好の場所だったのでしょう。こごえる寒さでは、たまらず焚き火もしたでしょう。檀家の人達が追い払っても追い払っても、雪国では彼らの生きる場所は他になかったのかも知れません。

  三月に入っても、梨郷村など雪国はまだまだ真冬です。農村部は町場と違って、それまでに降り積もった、かたずけきれない雪でいっぱいでした。天気のいい日に溶けた雪が夜凍って固まり、その上に新雪が積もり・・・・と、うず高く何層にもなっていました。三月に入ると入学試験が始まります。高校の時、せめて校門付近だけでも雪をかたずけようというのでしょう。全校で雪かきをさせられました。その他のグラウンドなどは、四月の入学式に間に合う形で業者に頼んでいたようです。その高校の講堂は、春休みの間に屋根の雪の重みで潰れてしまいました。高校の建物は、明治二十八年創立とかで、以前よくあった西洋風のしゃれた木造建築でした。町中(まちなか)の場合は、道路の両側に融雪溝というのがあって、重機などない時代、除雪の主流でした。道路の雪や、屋根から下ろした雪を流すための側溝です。そこに雪を集め、どんどん押し流していきます。場所によっては、相当深くて、大きいものもありました。冬と梅雨時以外は、底の方を水がチョロチョロと流れている程度ですが、冬場は流れでいっぱいになりました。雪国の、昔の人の知恵なのです。

  農村部は冬の間、大がかりな除雪なんてしませんし出来ません。広すぎてキリがありません。ほんの邪魔な所だけ、かたずけるだけです。道路も歩く所だけ踏み固めるだけです。車のなかった頃は、それで充分だったのです。冬は通っても、馬ソリくらいです。人家のない所など、吹雪くと道路の場所も判然としなくなるため、道路とおぼしき両側の所々に、木の枝を刺しておきます。屋敷内でも、建物周りの雪かたずけだけで、後は積もるにまかせるしかありませんでした。なにしろ、後から後から降ってくるのですから・・・。三月中旬以降になると降雪も少なくなり、除雪が始まります。真冬の間は、農作業といっても果樹の剪定(せんてい)ぐらいのものですが、四月に入ると本格的な農作業が始まるからです。天気のいい日は畑に灰をまき、雪が溶けやすくします。そして、荷馬車が通れるように、旧道や村道の除雪を地域総出でやります。踏み固められた雪が分厚く凍っていますので、ツルハシで割れ目を入れて、角シャベルで道路脇にどけていきます。農村では役所に頼らず、地域のことは全部自分達で解決してきました。大昔から、毎年毎年やってきたことです。

  旧舟着場に住んでいた頃、そして雪が消えかかる頃になると、父はよく裏のホリケ山から福寿草を採って来ては、空き缶に植え替えて花を咲かせていました。ホリケ山とは、最上川の蛇行した川筋を直すために掘り変えた残土の山で、いわゆる「掘り替え山」です。父は、それ以外の花には興味はなかった様子でした。福寿草に、早世した祖母との思い出でもあったのかも知れません。ちなみに、この旧舟着場の家は、祖母の実家でちょうちん屋でした。祖母は、ちょうちん屋の美人三姉妹(?)の一人だったということです。その福寿草も、ホリケ山以外で目にしたことはありませんでした。多分、最上川の上流から流れ着いて根付いたものでしょう。茎の丈が短い割りには、大きな花を咲かせました。小さい頃、陽だまりで見ていた、鮮やかな黄色い花でしたが、旧舟着場から引っ越してからは、一度も目にしたことはありません。

     
                   (2012.3.1記載)
拡大写真が出ます福寿草

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.42 (佐藤 一)
★九十年近く前に建てられた、旧梨郷駅
  写真は、30年ほど前に撮った初夏の梨郷駅です。以前は国鉄でしたが、当時は赤字線の末、第三セクター・フラワー長井線になり、現在に至っています。私が持っている、一番古い梨郷駅の写真です。ちょうどその頃、母が駅の近くに家を建てて、引っ越して来たたばかりでした。それ以前は、父と暮らしていた開拓地区入口の家でした。風光明媚な所でしたが、父が亡くなり車の免許を持たない母は、交通不便な開拓地区を嫌っていました。おまけに、井戸水の出も水質もよくありませんでした。ここは水道も整備されており、近くに母の妹が住んでいましたし、隣には母の姪が住んでいます。以前の所にも親戚は多かったのですが、父方の親戚ばかりでした。ですから、こっちの方が気がねなく、のびのび・・・というカンジだったと思います。近くには、私が小学一年生の時の担任の先生だった女性も住んでいて、懇意にしていただいていた様子でした。私が入学した当時は、師範学校を出たての、きれいな先生でした。ちなみに、学年二クラスずつあって、同学年の別のクラスの女の先生は、男みたいに大柄でコワそうな顔の先生でした。こっちは小さかったので、目を合わせないように、ビクビクしていました。ドラ声で生徒にどなっているのを見た事がありましたが、大きな体で小さな男の子に(ムリに?)オブさって、ニコニコしているのも見たこともありましたので、本当はやさしかったのかも知れません。

  駅の手前に材木が見えますが、右側に製材所があるからです。梨郷村は、面積の七割が山林なので、林業の村でもあったのです。ですから、中学生の時は植林の実習があり、全校で学校の山に行き、杉苗の植林をしました。私が入学するだいぶ前の話ですが、全国植林コンクール中学校の部で、準優勝を受賞したということです。優勝はどこだったのでしょうか、信州あたりでしょうか・・・。その頃小学校でよく歌われていた唱歌に、「お山の杉の子」という歌がありました。「まるまる坊主のハゲ山は~♪・・・」というやつです。昔の子供は今の子と違って(?)家でも遊んでいる時でも、大声張り上げて唱歌を歌っていました。いずれにしても、ド田舎という証明です。戦争で木材を切り出しハゲ山になったので、国策で植林を奨励したのでしょう。戦後六十年あまり、その頃植えた杉によって、現在花粉症に悩まされているのです。外国から安い木材が輸入されるにつれて、人手不足の山は放置され荒れ放題。そうなると杉に限らず、生存の危機感を感じて盛んに花を咲かせて、種をまき散らそうとします。写真の材木の所に、以前は貨物列車専用のホームがありました。そして、農産物も盛んに積み出していました。製材所の隣には農協があり、そして戦時中あたりまで操業していたのでしょうか、使われなくなった村営の醤油工場がありました。このあたりは小中学校から近いので、写生の格好の場所でした。

  私が授業時間に写生した元醤油工場の絵は、長い事、中学校の職員室前の廊下に、額に入れて飾ってありました。絵といえば、父も祖母の実家ちょうちん屋の血を引いたらしく、私以上に絵が上手でした。父が小学生の時、夏休みの宿題だったのでしょうか、「鉄道の開通式」の絵を描いて提出したそうです。その絵を見た先生に、「誰か大人の人に描いてもらったんだろう・・・」と言われたそうです。多分、新任の先生だったのでしょう。父はそれが悔しくて、授業時間にもっと上手く描いて提出したそうです。私は図工の先生には、贔屓(ひいき)されて可愛がられましたが、父はそんなタイプではなかった様です。梨郷駅は、当初、終着駅として発足したそうです。後に長井まで開通して長井線となるのですが、梨郷駅までの時は何線と言ったのかは分かりません。梨郷駅までの大きな町の駅は、熊野大社のある「宮内」だったので、宮内線とでも言ったのでしょうか、それとも始発駅名の赤湯線とでも言ったのでしょうか・・・。大正三年生まれの父が小学生の時に、梨郷駅までの開通式があったということです。父は小学校しか出ていません。小学校といっても尋常小学校と、高等小学校というのがあったとかで、父は高等小学校卒業したと言うのですが、それは幾つまで通学したのかは分かりません。いずれにしても、鉄道開通は大正末期か昭和の初め頃だったのでしょう。ですから、この駅は九十年近く前に建てられたことになります。

  私は、隣村の西大塚駅近くに住んでいましたので、高校の時など梨郷駅を利用することは殆んどありませんでした。しかし、小中学校いずれもこの近くだったため、写生の時間などは、よくこの近くに来ていました。駅舎周りの数本の木は桜の木で、その右側に駅職員用の官舎が四棟ばかり建っていました。そこの子供達は駐在所の子供達と共に、数少ない転校生でした。町から来た子供なので、アカ抜けして勉強が出来そうな子供達でした。駅は、農産物などの貨物も大量に扱っていましたので、駅員は常時四人以上はいました。私が小学生当時までは、蒸気機関車が通っていましたので、駅や官舎のみならず、近くの屋根はバイ煙で真っ黒になっていました。映画「スゥイング・ガールズ」の、女子高生たちが途中下車したのは、この駅舎です。後にそれを記念して(?)観光客でも呼び込もうと思ったのか、「スゥイング・ガールズロケ地だった・・・」といった内容の案内板と共に、ログハウス風の駅舎に建て替えられました。しかし、水を差すようですが、それは失敗だったかも知れません。というのも、ログハウスというのは、原野に入植した開拓者たち建築の素人が、とりあえず野獣や雨風からしのぐために建てた、いわば掘建て小屋です。ですから、丸太のまんまで仕上げのカンナなど一切使っていません。新しいうちはまだましも、古くなると、ただのみすぼらしい建物に過ぎないと思うのですが・・・。
                       (2012.4.1記載)
拡大写真が出ます

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.43 (佐藤 一)                      
★最上川と山脈に挟まれた、梨郷村の水田
  ページトップの写真は、南陽市に嫁いで来ているイトコが送ってくれたものです。稲刈り後の農閑期に行われる、法事などで時々帰省しているものの、季節ごとの写真は中々揃いません。それで梨郷村写真集の中には、このイトコが撮って送ってくれたものが混じっています。この写真は、最上川と山脈に挟まれた地域で、砂塚地区という所です。旧梨郷村では唯一、山の無いまっ平らな地区です。ですから、水田が大部分と少しの畑がある所です。砂塚地区は、「おか(陸)ひじき」の栽培発祥の地と言われている所です。おかひじきは元々、日本海岸の山形県庄内浜に自生していたものだそうです。最上川をサカノボった、この砂塚地区の土壌が庄内浜の砂地に似ていたために、移植されたものだということです。旧梨郷村では、砂塚地区以外でも広く栽培されています。移植されたのは随分昔のことでしょうから、遠く離れた庄内浜にその原種が自生し、現在も残っているかどうかは分かりません。ひょっとしたら、浜辺に自生して「おか(陸)ひじき」ということは、「海のひじき」と、親戚関係にあったのかも知れません。ちょうど、ガラパゴスの「海イグアナ」と、「陸イグアナ」みたいに・・・。

  おかひじきは近年、東京のスーパーなどでも見かけるようになりました。海のひじき同様、カルシウムなど、ミネラル分の栄養素が豊富です。シャキシャキした、独特の食感が美味しいです。時々主婦などがスーパーで、「これ、どうやって食べるんだろうネェ・・・」などと、立ち話しているのを見かけることがあります。おかひじきは、モロヘイヤなど一部の葉物野菜と同じように、摘み取ってから暫くすると下(もと)のところの、茎の筋が固くなってきますので、下を少し切り落としてから茹(ゆ)でます。ほうれん草よりは少し長めに茹でますが、パックにその説明が書いてあると思います。茹で過ぎると、せっかくのシャキシャキした食感がなくなってしまいます。食べ方は、醤油のマヨネーズ和えが美味しいです。旧梨郷村の主な特産物としては、他に食用菊があります。どちらもパックに、「南陽市」と印刷されてあると思いますので、見かけたら「あっ、梨郷村」と思い出していただけたら、うれしいです。

  写真、山脈の手前に民家が連なって見えますが、私が梨郷村に住んでいた約半世紀前は、この辺に人家など殆んど見当たりませんでした。梨郷村が分村していた時代は、砂塚村といいました。その後、再び合村して梨郷村に戻りました。私が小学校に通っていた時分は、学校を挟んで帰り道と反対方向なので、一・二回同級生の家に遊びに行った時以外、殆んど行くことはありませんでした。なにしろ、自分の家に帰るだけでも、子供の足では物凄く遠かったものですから・・・。中学生になってから、叔母さん(母の末の妹)がこの地区の大きな農家に嫁いで来ました。現在はビニール・ハウス栽培を手広くやっていて、雪深い真冬にも重油を焚き生鮮野菜を作っています。多分このあたりでは、ビニール・ハウス栽培の先駆けだったと思います。今では梨郷村はビニール・ハウスが多く、真冬でも暖かいハウスの中で薄着で仕事をしています。しかも温度管理などはハイテクのコンピューター管理です。インターネットで直接消費者に、販売している人もいます。今の農業高校は、そういう勉強をしているのです。ですから、出稼ぎなどしなくても充分稼げるのです。反面、米価は下がる一方で、お金になりません。TPPが導入されたら米作はやがて崩壊し、収益の上がるハウス栽培に拍車がかかると思います。

  去年大震災の時、建ち並ぶビニール・ハウスに大津波が押し寄せる、衝撃的な光景がテレビに映し出されました。多分その辺りも、お米の増産が叫ばれた高度成長期以前は、見渡す限りの水田地帯だったのでしょう。そして減反でその水田だった所が、収益のいいビニール・ハウス栽培に次々に変わってきたのでしょう。そのうち、弥生時代から延々と続いてきた、水田の農村原風景なんて、飛騨高山のように、ノスタルジックな観光地でしかお目にかかれなくなるかも知れません。残るのは、農業効率は良くないけれど風景としては美しい、棚田だけになるのかも知れません。

     
                   (2012.5.2記載)
拡大写真が出ますおかひじき

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.44 (佐藤 一)
★金の試掘もあった(?)、梨郷村の山
  この写真も先月号の写真同様、南陽市に住むイトコが撮って送ってくれたものです。ですから、正確な場所は分かりませんが、私には縁がなかった和田地区という所だと思います。分村時代は、和田村と言われていました。「夕鶴の里」の、漆山村に隣接しています。先月の砂塚地区とは違って田んぼは少なく、わずかな畑と大部分の山林です。民家(農家)は山麓に少数点在しています。写真の民家を見ると、屋根の形からして、以前は茅葺だったことが分かります。梨郷村の典型的な養蚕農家同様、長年豪雪に耐えた頑丈な造りです。家の前の赤い木は、梨郷村の庭先によく植えられている赤スモモの木でしょう。子供の頃住んでいた旧舟着場の屋敷にも、赤スモモの大きな木がありました。葉っぱや若枝は春先から一年中深紅色で、その果実も未熟なうちから中身まで深紅色でした。

  確か、中学一年生頃だったと思います。私の家に、同級生の男子、五・六人が遊びに来ました。私の家からは程遠い所に住んでいる者ばかりでした。少し前、私が隣村のお祭りで買ってもらったおもちゃで、一緒に遊ぶことになったのです。それはブリキで出来た、小さなポンポン蒸気船でした。短く切ったロウソクを灯すと、水を張ったタライの内側をグルグル、音を立てて勢いよく走りました。船尾の二本の細い管から小さな泡を噴射して、ロウソクが燃え尽きるまで走りました。学校近くの文房具店でロウソクを一箱買い込み、皆で私の家に来ました。そして、庭先に大きなタライを持ち出して暫く楽しく遊びました。単純そうな構造のおもちゃでしたが、それがどういう仕組みで走るのか、とても不思議でした。きっと、アタマのいい人が考えたのでしょう。当時としては、傑作の部類でした。ひとしきり遊んだ後でも、まだロウソクはいっぱい残っていました。そこで、私の家からあまり遠くない山中にある、洞穴(ほらあな)の探検に行くことになりました。梨郷村の土壌の多くは、粘土質を含んでいました。ですから、畑の土はすぐ固くなり耕作が大変でした。しかしその反面、山の土砂崩れなど、あまり聞いたことがありませんでした。他にも、地区の崖には共同で深い横穴を掘ってあり、冬期間凍ってはイケない種芋などを貯蔵していました。地区の集会場に近いため、よくその近くで遊びましたが、入口はいつも南京錠で閉ざされていました。

  いつの頃か分かりませんが、多分かなり昔のことでしょう。近くの山中に、金を探して掘った(?)という洞穴が、いくつか残っていました。真偽の程は分かりませんが、穴が放置されたところを見ると、結局金は出なかったのでしょう。それらの穴三箇所の場所を、私は知っていました。その三・四年前の小学生の頃に、地区の中学生ら数人に連れられて、中を探検したことがあったからです。縦一列に並び、ロウソクを手に持って中に入りました。よく覚えていませんが、おもちゃのポンポン蒸気船遊びで余ったロウソクを見ているうちに、その洞穴のことを同級生達に話したのだと思います。そして、皆でその洞穴を探検しに行くことになったのだと思います。私は、同級生達を、山中のその場所に案内しました。穴の入口は落ち葉などで以前より小さくなっていました。今と違ってその頃の中学生は小柄だったのですが、頭からようやく入れる位の入口の小ささでした。多少下る形でもぐり込むと、内部の坑道は以外に広く、腰をかがめれば中学生がラクに歩ける程の幅と高さになっていました。いずれも、試掘という感じの穴ばかりで、程なく掘るのをあきらめたような感じでした。ですから、枝分かれして掘った様子もなく、ある程度横に掘り進んだ形で終わっていました。

  その穴の一つには、コウモリが住みついていました。もう半世紀以上も経つので、入口はもう完全に塞がっているに違いありません。しかし、その内部は誰の目にも触れる事なく、潰れずに残っているかも知れません。その場所を知っている人は、旧梨郷村でも、もう殆んどいないでしょう。
                       (2012.6.3記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.45 (佐藤 一)                      
★梨郷村で共に生きた、働く動物達
  ページトップの写真は、映画「スウィング・ガールズ」に出てきた気動車です。「梨郷村・写真集」を見て、お気付きの方もいらっしゃると思いますが、人が全然写っていません。福島の放射能立ち入り禁止区域みたいですが、実は過疎地で昼間歩いている人を全然見かけないのです。2・3年前、中学生が全校で40人程になり、他の地域の中学校に統合になりました。従って、もう旧梨郷村に中学校はなくなってしまいました。かつては、250人以上いたのに・・・。山に人が入らなくなって、多分野生動物だけは増えていると思います。

  私が小学生の頃までは、梨郷村で動物を飼っていない家はありませんでした。いわゆる産業動物達で、ペットは全くいませんでした。村のほぼ100パーセントは専業農家でしたが、その全部の家に、農耕用の牛や馬を飼っていました。私の家は農家ではないので、牛や馬は飼っていませんでした。圧倒的に多かったのは、黒い牛で、乳牛はまだ飼っている所はありませんでした。他の動物に比べ、牛だけはいつも引っ叩かれて可哀想だなと、子供心に思っていました。しかし、そう強く引っ叩かれている訳ではなかったのでしょう。その証拠に、おとなしくて子供にも攻撃することもなく、草をむしって差し出すと喜んで近寄って来ました。下あごを前から喉に向かって撫でてやると、首を上に反らして、気持ち良さそうに喜びました。暴れているのは、見た事はありません。むしろ、自分の運命を黙って受け入れているようにさえ見えました。農耕用の牛は、肉牛と違って長く飼育されるので、農家の人達もそれなりに愛着を持って接していたのかも知れません。飼い主が牛のお尻を叩いているのにしても、そこが別に傷ついて血が出ている訳でもなく、単に「進め」という合図程度の強さにしか、過ぎなかったのかも知れません。私が中学生になった頃には、農耕用の牛はあっという間に耕運機に取って変わられ、姿を消してしまいました。

  農耕馬を飼っている家は、牛に比べて多くありませんでした。畑の土壌が、ゆっくり耕す牛に向いていたのかも知れません。隣村の母の実家は、殆んどが田んぼばかりで、しかも耕地面積が広かったせいか、作業効率の高い農耕馬を使っていました。馬は本来おとなしい動物なのでしょうが、子供の目から見ると、とても大きく、動きが素早いので怖い感じでした。多分、じゃれ付いて遊んでいる気持ちだったのでしょうが、力が強くて恐怖でした。母の2番目のお兄さんは、満州で騎兵だったということす。その叔父さんによると、馬はとても利口な動物で、人の気持ちを敏感に感じ取ると言っていました。近くに敵兵の気配を感じ取ると、気づかれないようにそっと草の上を歩くのだといっていました。私が小学校に上がる前の旧舟着場に住んでいた頃、つないでいた馬が時々逃げたりしていました。しかし、飼い主が探してくれるのを待っていたかのように、すぐ捕まっていました。又は、独りでに馬屋に戻っていました。本気で逃げるつもりなら、馬の逃げ足ではとても捕まる筈はありません。本当は、ちょっぴり自由が欲しかったり、遊んでみたかっただけだったのでしょう。母の実家では、他に犬・猫・ニワトリ・アヒル・うさぎ・山羊と、カイコ・ミツバチと鯉まで飼っていました。そんなに多くの「家畜」を飼っている家は、私の知っている限り、他にありませんでした。犬・猫に関しては、必需品という感じで、どこの家でも飼っていました。そして皆、それぞれに働いていました。

  ニワトリも殆んどの農家で数羽ずつ飼っていて、昼間は放し飼いにされていました。すると、勝手に餌を探して食べるので、給餌の手間がその分省けるのです。そして、けっこう自由奔放に動き回っていました。養鶏場など、都市近郊にはあったかも知れませんが、まるっきりの田舎では見たこともありませんでした。当時、卵は貴重品で、店で買うと卵1個10円位はしました。牛乳一本(瓶)10円の時代にです。卵10個を新聞紙に包んで病気見舞いに持って行くと、とても喜ばれました。私の家は四人家族でしたが、卵一個を割って醤油で薄めて、朝食の卵かけご飯にしていました。それでも、卵の味は充分あって大好きでした。一人で卵一個丸々食べられるのは、病気の時か遠足の時の茹で卵ぐらいでした。ニワトリは放し飼いにしていると、10メートル以上は軽く飛びます。時々犬とケンカしたりするからです。猫などは、大きくて気の荒い雄鶏には、チョッカイすら出しませんでした。なにしろ、コワイ恐竜の末裔です。そういう訳で、子供の頃食べていた卵は、全て雄鶏がらみの有精卵でした。近年、患者さんから手土産として、有精卵をいただく機会がありました。早速卵かけご飯にして食べたところ、無精卵と比べ、とても美味しく感動しました。久しぶりで、本当の卵の味を忘れていました。


  
私の家では、犬・猫の他に、山羊を二回飼いました。どちらも白いヤギで、乳を飲むのが目的なのでメスでした。一頭目のは、私が小さかった頃なので、世話をするというより、犬も交えて一緒の遊び相手でした。小学四年生の時飼った二番目のは、もっぱら私が世話していました。冬以外の天気のいい日は、家から見える200メートルほど離れた、堤防の草ムラにつないでいました。私に良くなついていました。夕方家で勉強などしていて、暗くなったのに気付かないでいると、寂しがってしきりに呼ぶのが聞こえてくるのです。私が迎えに行くと、喜んでつないであるを綱いっぱいに引っ張って近寄ろうとするのです。家でもヤギ小屋に入って、毎朝私が餌をやっていました。父母は何かと忙しいので、私の家に限らず、ヤギやウサギなど、小動物の世話はどこでも子供達の役割りでした。私のヤギは、何回か仔を生みました。そんな時は、全身にネバネバした汗をびっしょりかいていまいた。動物でも、出産は大変なんだなと思っていました。中学生ぐらいまで生きていましたが、ある時突然小屋で死んでいました。動物病院などないので、死因は分かりませんでした。とても悲しくなり、側に一緒に寝て、長時間抱きしめていました。それ以降は、上京してアパート住まいということもあって、動物との接点はなくなってしまいました。出来たら治療院の待合室に、「招き猫」を飼いたいです。
  
                     (2012.7.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.46 (佐藤 一)
★梨郷村の夏休み、子供達の毎日
  写真は、じりじりと油蝉(あぶらぜみ)の音が聞こえてきそうな、梨郷村夏の昼下がりです。雪国では、学校の冬休みが長い分、夏休みの日数は少なくなります。しかし、雪国だからといって、夏涼しい訳は決してありません。実を言いますと、山形は約七十年間、日本の最高気温を記録していました。台風のフェーン現象によるものです。それを四・五年前、岐阜と熊谷に更新されてしまいました。梨郷村は、日中の日向(ひなた)は暑い反面、風が通る日影に入ると、以外に涼しいです。ですから、農家では、今でも冷房は殆んど付けていません。扇風機だけで間に合います。家での男性の服装は、サルマタかフンドシ一枚でした。現在は、狭い一部屋くらいはエアコンを付けて、特別な来客のモテナシなどに使っているようです。農家の多くは元々茅葺屋根の家だったのを、改良して使っているので、天井も高く機密性も良くありません。かつては、夜窓を開け放って寝ていると、蚊帳(かや)の上にホタルが数匹止まっていました。

  私が小学生の頃、夏休みの宿題は多くありませんでした。印刷された宿題帳一冊だけでした。ですから、思いっきり遊びほうけていました。午前中宿題をして、昼食後から、晴れた日は毎日夕方まで川遊びをしていました。それ以外、暑くて何もする気がしませんでした。私が子供の頃は、学校にプールがありませんでした。皆、最上川で泳いだりしていました。その頃の最上川は、川漁師が魚を取ったりしていましたので、水がきれいでした。旧舟着場にも、常時三ソウの舟がつないであり、村人も時々集まって漁をしていました。海から遠い内陸地方では、川魚は貴重な蛋白源だったのです。大昔から、川で漁をしていたのでしょうが、私が子供の頃でも、その名残(なご)りがまだ残っていました。毎年夏の始めに、学校の先生やPTAの役員さん達など、数人が最上川を視察に来ました。そして、実際に泳いだりして、最上川の数箇所を遊び場所に決めてくれました。そうしますと、村の各地区の近くに、川遊びの場所が出来ました。第一級河川の最上川は急流で深い所も多いからです。その深みも、毎年の洪水で場所が変わります。それに、農作業に忙しい大人が付き合うことも出来ないので、子供達だけで川遊びすることになるからです。地区の指定場所が決まると、そこには中学上級生から、小学低学年まで、満遍(まんべん)なく行き渡る仕組みになっていました。つまり、低学年はいつも上級生の目の届く範囲内で、遊んでいることになります。どうせ地区の子供達は、殆んど全員が血縁の縁続きなのですから、小さい子を放ったらかしには出来ません。

  川遊びは、先に書きましたように、毎日、昼食後から夕方まで続きます。一旦川に入って、日中早めに帰宅したりすると、逆に体がホテってダルくなります。その後は、何もする気が起きません。ですから、雷でも鳴らない限り、夕方まで川に居続けるしかないのです。最初は暑いので、いきなり川に飛び込んでひとしきり泳ぐのですが、いくら夏でも水に浸かりっぱなしでは、体が冷えてしまいます。唇が紫色になって、体がブルブル震えてきます。ですから、暫く川岸周辺で遊びます。釣竿を岸に突き刺したり、砂遊びをしたりします。そして、体が熱くなったら、また泳ぐ繰り返しです。男の子も女の子も、上級生も下級生も、皆一緒になって遊んでいました。上級生は、そのまた先輩から泳ぎを教わっているので、全部泳げます。溺れた子供の救助方法も、先生に教わって知っています。急流ですから、背の低い子が、目を離した隙に深みにはまって流されたりすることが、どうしても起きます。ちなみに溺れた子供の正面から助けに行っては、イケないのです。必死で抱きつかれてしまうので、両方とも一緒に溺れてしまいます。こちらの両手が使えなくなってしまうからです。溺れた子はパニックになっているので、救助する時は大人でも気を付けないと危険です。背後からゆっくり近づき、体を密着することなく髪の毛をつかんで、立ち泳ぎしながら岸まで引っ張って来ます。他の上級生もそれをサポートします。ですから、皆で一緒に遊んでいる限り、事故など起きませんでした。

  昔は、蒔で風呂を焚(た)いていました。イロリは、山で拾った枯れ枝や、収穫に付随した可燃物などを使っていましたが、風呂釜の場合は薪を使っていました。戦時中や戦後の復興で、建築用木材を大量消費していました。山の多くは、炭や蒔にする雑木から、建材向けの杉へと植林されていました。ですから、どうしても薪の量が充分とは言えず、夏でも毎日は風呂をたてられませんでした。時々近所の親戚同士、互いに貰い湯をした程でした。それで、農作業を終えた大人も、夕方馬を洗った後で、川で水浴びをしていました。そんな時は、びっくりするほど泳ぎが上手いのです。子供の頃、いつも川で泳いでいた結果です。そんな訳で、嫁入り直前の女性以外は、夏は皆真っ黒に日焼けしていました。西大塚駅に向かう鉄橋の下では、隣村の子供達が、やはり大勢で歓声を上げながら泳いでいました。私達の場所とは離れていたし、昔隣村とは最上川を挟んで一時敵対関係にあったという事から、一緒に遊ぶことはありませんでした。自分の親達の、家での会話を聞いているうちに、どうしても子供心にも影響を与えてしまうのです。しかし、隣村の母親の実家に行った時は、近くの堀でイトコ達や周辺の子供達と一緒に泳いでいました。母親の実家は最上川から離れていましたので、農業用水の関(せき)のような所でした。最上川と比べて、幅は狭く浅くて、物足りませんでした。

  小学四年生から住んでいた所は、大伯母の家の隣でした。そこには五歳年上のハトコがいました。そのハトコは、一時期の夏、最上川にナマズ漁の仕掛けに連れて行ってくれました。ナマズは夜行性なので、夕方に仕掛け、翌日の早朝引き上げに行きます。1メートルくらいのタコ糸に大き目の釣り針を取り付けます。そして、針に二・三匹の黒い蛭(ひる)を生きている状態でつき刺します。ナマズを引き寄せるエサです。それを結びつけた棒を川岸の多くの場所に突き刺します。私も数本ずつやらせて貰いました。翌朝四時頃引き上げると、かなりの確立で大ナマズがかかっていました。村では、ナマズ漁専門の漁師もいました。私の仕掛けにも、時々ナマズがかかっていました。しかし、家で料理したナマズは決して美味しいものではありませんでした。身が軟らか過ぎて泥臭く、皆嫌がりましたので、獲りに行くのも止めました。ナマズは専門料理店で食べると美味しいと聞きます。ハトコはいつもナマズを獲りに行っていましたので、隣のオバサンはナマズ料理が上手だったに違いありません。多分ウナギのように、白焼きにして身を引き締めてから調理するのだと思います。川魚はクセがあり、料理法が難しいのです。しかし、鯉の甘煮(うまに)はもとても美味しく、私の郷里では最高のご馳走でした。
                       (2012.8.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.47 (佐藤 一)
★梨郷村で食べた、蒸し竃(むしがま)のご飯
  今はどうか分かりませんが、昔、寿司飯は山形県の庄内米と決まっていました。銘柄は、もちろんササニシキです。米所、庄内平野は昔から豊かな所でした。それに引き換え、梨郷村を含む置賜盆地は、自然条件にあまり恵まれない所でした。庄内地方は、民謡など芸能も盛んで、文化の薫り高い所です。置賜地方は、そんな心の余裕がなかったのか、置賜地方発祥の民謡など聞いたことがありませんでした。原因は、最上川の氾濫と干ばつです。

  太古の昔、米沢を含む置賜盆地は、大きな沼だったということです。おそらく、それ以前に隕石が地球にぶつかって出来た、クレーターだったのでしょう。やがて地殻変動で周囲の山の一部に裂け目が出来、庄内平野の方へ水が引いて行って、大きな盆地が形成されました。盆地の底に残った形の最上川ですが、日本三大急流の一つ、国土交通省直轄の第一級河川です。毎年春と秋の年二回は、洪水を引き起こしていました。最上川は、盆地の中央部を縦断していません。盆地縁の山脈から多くの支流が流れこんでいるので、盆地の端っこ寄りになっています。ですから盆地の中央部は、その豊かな川の水を水田に活かしきれませんでした。雨が降らなければ、たちまち干ばつに見舞われました。歴代の領主たちは堰(せき)を築き、最上川の水をなんとか利用しようと、腐心しました。伊達政宗に至っては、この地を見限り、仙台の方に根城を移してしまいました。あとは、神頼みしか有りません。昔の坊さんの重要な仕事の一つは、「雨乞い」だったということです。有名な日蓮上人なども、信念を持っていたかどうか分かりませんが、盛んに行っていたようです。梨郷村の水田は山脈と最上川に挟まれた所なので、山から流れ出る湧き水も豊富でした。ですから古くから水田があり、口分田の律令時代には、既に村が形成されていたようです。しかし平地が狭いので近郷の村々と比べ、水田は多くありませんでした。おまけに川のすぐ側ですから、洪水の後には倒れた稲穂をよく見かけました。すぐ発芽してしまうので、一年間の苦労が無駄になってしまいます。

  しかし、昼夜の気温差のためか、取れたお米は美味しいものでした。ご飯は羽釜で、イロリやカマドで炊いていました。母の実家では、籾殻専用(?)のカマドで炊いていました。15人以上の大家族で、沢山炊くせいもあって美味しいご飯でした。農村では、腹持ちがいいせいでしょう、硬めのご飯が一般的でした。私が中学生の時、父が土で出来た「蒸し竃(むしがま)」を買って来ました。ザラザラした表面が緑色に着色してあり、素焼きの分厚い蒸し竃でした。形はズングリして、やや円筒形でした。その中にオキた炭を入れ、仕掛けた羽釜をセットして、蒸し竃のフタをします。フタは密着性のすり合わせになっていて、てっぺんに短い筒状の煙突が付いていました。暫くして、その煙突から白い湯気が上がったら、煙突に帽子のようなフタを被せ、下の空気取り入れ口も塞ぎます。そして、中の羽釜を充分蒸し上げます。出来上がって、ふっくら立ち上がったご飯は、実際見事でした。香ばしいオコゲも出来ました。それを真っ先に貰って、醤油を付けて食べたりしました。私はこの蒸し竃で炊いた以上の美味しいご飯を、今迄食べたことはありません。今使っている、I H電気釜以上でした。田舎暮らしをした事のあるご年配の方なら、ご存知の方もいらっしゃると思います。写真は炊飯ではなく、ピザの調理に代用されています。容量は、かなり大きな羽釜も入り、弁当三箱を含む朝昼二食分の四人家族では充分でした。
                         
  遠足や田んぼ、山仕事などに出かける時には、もっぱらオニギリを持って行きました。田舎のですから大きいです。湧き水などを汲んできて食べます。オニギリ二つも食べれば、農家の大人でも充分です。子供は一つで、お腹いっぱいになりました。私が子供の頃、海から遠い梨郷村では、海苔は贅沢品でした。海苔のオニギリは遠足の時ぐらいにしか食べられませんでした。普段圧倒的に多いのは、味噌の焼きオニギリです。味噌は冷蔵庫が無い頃ですから、自家製の塩分の濃い赤味噌です。イロリで焼いた、焦げ目が付いたオニギリはとても美味しいものでした。他に、塩漬けにした紫蘇(しそ)の葉を全面に貼り付けて焼いたものは、一見海苔のオニギリ風でした。子供や女性向けには、砂糖入りの黄粉(きなこ)をまぶしたオニギリもありました。それを、田んぼのアゼなどに置いておくと、蟻がたかって食べられないこともありました。農家の朝食は早く重労働なので、10時頃には田んぼのアゼ道で休憩しながら、「こじはん」といって、間食のオニギリを食べていました。焼きオニギリは新聞紙で、他は大きな「ギボウシ」の葉に包んでいました。生のギボウシの葉には、抗菌作用があるのです。梨郷村の農家の裏庭では、たいてい食用のギボウシを植えていました。ギボウシの茎は茹(ゆ)でて乾物にし、ゼンマイのように煮しめ料理にして食べます。雪国の保存食の一つでした。

  ちなみに、味噌の焼きオニギリですが、今自宅で作ろうとしても、残念ながらうまくいきません。せっかくの味噌の焦げた部分が、焼き網にくっ付いて、剥がれ落ちてしまうのです・・・。
                        (2012.9.1記載)
拡大写真が出ます蒸し竃

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.48 (佐藤 一)
★梨郷村、農家の家庭菜園
  私が子供の頃、梨郷村には殆んど農家だけしかありませんでした。近郷近在に会社等なかったからです。ですから、農家出身の二男・三男等の勤め人がいても、村役場の職員とか国鉄職員、農協職員など、殆んど公務員だけでした。そういう人達は、実家の側に家を建て住んでいました。農村には店は殆んどなく、もちろん八百屋なんてありません。農家も含めて、そういう人達は三畝から五畝程の家庭菜園を持っていました。農家はお米や野菜など、職業としての換金作物を作っています。それは、その時々儲かりそうな作物に的を絞るので、種類は決して多くありません。ですから、農家と言えども換金作物は限られてしまいます。しかし、普段の食生活で栄養が偏らないためには、いろいろな種類の作物が必要になってきます。そのために、屋敷横に家庭菜園を持っていました。そこには、家庭で食べるあらゆる種類の作物が、少しずつ植えてありました。それと、換金作物で売り物にならないものは家族で消費します。ですから農家は基本的には、自分の家で作っている旬の野菜しか食べていませんでした。野菜の取れない冬などは、その干物漬物等の保存食です。基本的に、元々農村は自給自足社会だったからです。

  そんな訳で、梨郷村では、商店でも勤め人でもあらゆる家で、家庭菜園を持っていました。まだ、保存のための冷蔵庫もない頃ですから、なおさらです。、それでも足りない分は、山菜なども含め、親戚の間で回し合っていました。母の実家は大きな農家でしたので、リンゴやブドウなど、貰い物で沢山食べていました。換金作物は、見栄えが良くないと売れません。見た目きれいで美味しそうに見えるものです。ですから、虫が付かないように、消毒が必要になります。そのように、スーパーマーケット側が注文し仕込んだものです。彼らの戦略は売れて儲かればいいのです。利潤追求で成り立っている、シビアな商売だからです。作物重視の農民じゃないから出来る、野菜に対する発想だからです。元々、アメリカ流のスーパーマーケット戦略です。ですから、美味しそうに見えれば、それでいいのです。どうせ物流のために、熟す前に収穫したものですから、仕方が無いという考え方もあるでしょう。当然、スーパーマーケットには、ハウス栽培で作られた、工業製品のような規格品の野菜だけが並ぶことになります。スーパーマーケットが近年営業不振に陥っているのは、値段の安さで客を釣ろうとしてきた、消費者を軽んじた報いでしょう。テレビでヨーロッパの街角が映る時がよくあります。不揃いな果物や野菜など、無造作に積み重ねて売っています。それに不満をぶちまける客なんて、全くいない様子です。

  農家の人や農家出身の人達は、本当の美味しい野菜の味を知っているのです。その道のプロですから、まずい野菜なんて食べていません。農家の家庭菜園で出来た野菜を、一度食べてみてください。本物の野菜とはこういうモノかと、感動する筈です。農家では、家庭菜園は第一戦を退いたお年寄り達が、豊富な経験を活かして、留守番がてらにやっています。のんびりと、足腰等の健康維持のためでもあるのです。彼らは自分の大切な孫達に、農薬漬けの野菜を食べさせるでしょうか・・・?農家としてのプライドを持った人達ですから、安全でしかも美味しいものしか作りません。キャベツは生でも食べるくらいですから、アクが少なく虫がつきやすいものです。いわゆる、モンシロチョウの幼虫、青虫です。モンシロチョウに限らず、昆虫達は作物の花の受粉を助ける、農業の大切なパートナーです。当然スーパーマーケットで売っているものは、虫食いの穴など一つもありません。スーパーマン(?)達が、消費者にそういう物だけを提供し、そうあるべきだと教育し、仕向けた結果です。私は子供の頃穴だらけのキャベツを食べていました。キャベツは例え虫がついていても、一枚一枚剥がして洗えばいいのです。それを重ねて千切りにすればいいだけの話です。

  私の家では父が勤めに出ていたために、家庭菜園は私と母がやっていました。小学四年生の時、舟着場から山麓に引っ越した所は、元々一反部近い畑でした。通りに面した半分を屋敷に、残り半分が家庭菜園になりました。屋敷の方にも、食用菊や茗荷・根ワサビなど、全く手がかからないものを植えっぱなしにしていました。家庭菜園の方は、毎年種を播いて沢山の種類を植えていました。その殆んどは毎年同じ物でした。畑の幅は10メートルもなかったと思います。そこにナス2列とか、サヤエンドウ2列、キュウリ2列・・・といった具合でしたが、ナスなどは毎日もいでも、次から次と花が咲き実を付けるので、毎日一夜漬けにして食べていました。学校から帰ると、畑の手入れをしていました。トイレ汲みをして、作物の根元の土にかけます。雑草はけっこう生えていました。草が一本生えていない畑なんて、見栄えだけのものです。作物も多少生存競争に晒した方が、頑張って美味しくなるのです。畑があると、畑だけに生えるような、食べられる野草もよく生えてきます。いくら野草摘みでも、他人(ヒト)の家の畑に入る訳にはいきませんから・・・。ナズナとかアカザとかスベリヒユなど、個性的で美味しいものが多いでのす。味の個性が強すぎるために、料理法が限られ、野菜になりそこなったモノ達です。私が帰省した時には、店では売っていない野草だけが目当てです。叔母さんの家の畑にも、野草目的でお邪魔して、失笑をかっています。

  私も老後は梨郷村で家庭菜園でもやって・・・と思った事もありましたが、豪雪を考えるとチュウチョします。一冬中、雪下ろししながら暮らすなんて勘弁して欲しいです。冬以外は、とてもいい所なんです。別に何にもない所ですが、その何も無いところが逆に貴重なんです。鎌倉に住む人によると、観光地なんかに住むもんじゃないと言います。日曜日など、自宅前の交通渋滞で、車で買い物にも行けない。渋滞時、勝手に庭に入り込んで来て、子供におしっこをさせる、車酔いのゲロをさせる。車の灰皿の吸殻を、停車時に捨てて行く。壊れた電気製品や貰い手のない子猫を、捨てて行く・・・等々。やっぱり、梨郷村は梨郷村で充分いいのです。
                       (2012.10.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.49 (佐藤 一)
★小学生の時に受けた、カイロプラクティック療法(?)
  私が子供の頃、梨郷村はほぼ100%が農家でした。以前は、トラクターなどありません。火山灰による関東ローム層の土壌と違い、梨郷村を含む置賜盆地の土壌は粘土質が多く含まれ、畑の土がすぐに固くなりました。ですから、力を入れ易いように、耕す鍬(くわ)の柄も、関東地方のそれとは違って短いものでした。それによって、いつも深く前かがみで畑仕事するので、腰に負担がかかっていました。中年以降の人達は、大抵腰痛や神経痛に悩まされていました。今で言う、椎間板ヘルニアです。その手術は、一大決心を要しました。脊髄神経損傷のリスクがあり、そうなると半身不随を招く危険性がありました。肝心の農業自体が出来なくなってしまうので、誰も手術はしませんでした。ですから、病院も頼りにならず、神経痛は治らないものと諦めていました。治療法と言えば、お灸や農閑期の湯治(とうじ)等です。隣村、伊佐沢村の法印さんは、梨郷村の農家を訪問しては、お灸をすえていました。多分、ご自身のお寺でも、鍼灸治療院をやっていたのでしょう。元々、鍼灸は坊さんが布教に付随してやっていたものと思います。かの弘法大師様も、中国でその技術も習得して帰り、やっていたかも知れません。

  農閑期の湯治は、お年寄り夫婦など約十日程ですが、自炊しながら、毎年のように行っていました。山形県内には、湯治場専門の、観光客の行かない温泉宿も多くあったのです。谷川を利用した自家発電で、冬場は陸の孤島になるので閉めている所もありました。その殆んどは、男女混浴でした。そんな中で、米沢市からさほど遠くない所に「小野川温泉」というのがありました。宿は二軒程で、温泉熱を利用して豆もやしを副業で作っているという話でした。なんでも、小野小町が逗留(とうりゅう)したという、言い伝えがあるそうですが、真偽の程は分かりません。人里離れた山中に大昔からあったものが多く、戦国時代など、戦いによる古傷を癒したものと言われています。冬場は前述のように陸の孤島になりますので、地域の子供達の通う小学校の分校などもありました。他に、山形県内には交通至便な所で、宴会や接待目的用の温泉場もあります。梨郷村が属す南陽市内には、赤湯温泉と言う所があります。こちらは完全に遊興地という感じです。JRの赤湯駅付近は、殆んど何もない所ですが、そこから少し離れた温泉街に行くと、別世界のような繁華街になっています。赤湯温泉は、鉄分が多く、その鉄錆で赤く染まっています。

  私が小学三年生の頃でした。ある朝、突然正座が出来なくなりました。膝上の筋肉が硬縮して伸びず、膝が充分曲がらなくなってしまったのです。当時どこの家でも、食事は正座をして食べていました。その朝食時に気がついたのです。こんな経験は初めてだったので驚きました。前日までの暮らしで、思い当たるフシは何もありませんでした。トイレも当時和式だったので、しゃがめず、膝を着いて大の方をしました。戦時中、衛生兵だったという父も、これは尋常ではないと思ったのでしょう。その日のうちに、母が「骨ツギ」に連れて行ってくれました。つまり、接骨院という意味です。その「骨ツギ」は、国鉄長井線の奥の方にあり、家からはかなり遠い所でした。白鷹町の「鮎貝」という最寄駅だったと思います。ちなみに、白鷹町はNHK朝の連続ドラマ「おしん」の、ロケ地だった所です。昔も今も,山間(やまあい)の交通不便な所です。その鮎貝(あゆかい)の「骨ツギ」の先生は、「名医」だと広く評判でした。梨郷村にも治して貰った人が数多くいて、「鮎貝の骨ツギ」と言えば、知らない人がいない程でした。

  母に連れられて、その「骨ツギ」に到着しました。外観は治療院とも思えない、ごく普通の民家でした。玄関を入ると二間続きの和室が見えました。イスも何もない一方の部屋で、治療を待っている人が大勢座っていました。そして奥の部屋の一角で、黙々と治療している、中年男性の姿が見えました。かなり手馴れた様子で、順次患者さんをコナしていました。いよいよ私の番が来ました。膝周辺の治療はしましたが、しきりに背骨にアプローチしていました。今思い起こしてみますと、その治療法は接骨院の治療とは全く異質なもので、思うに接骨院の治療レベルを超えたものでした。背骨の歪みを取る治療法から察するに、明らかにカイロプラクティック(又は整体)の治療法でした。当時、カイロプラクティックという名称は一般に馴染みがなかったので、皆は通称として、「骨ツギ」と呼んでいたのでしょう。私は、治療直後すぐに正座出来るようになり、喜び勇んで帰りました。つまり、一発で治ったのです。現在、カイロプラクターの私が考えてみても、その技量たるや素晴らしいものだったのです。ですから、そんなヘンピな所でも繁盛していたのでしょう。

  それから暫くして、その先生は無資格の「骨ツギ」だったということで、営業出来なくなったと聞きました。その繁盛ぶりを妬んだ人達によって、監督官庁に通報されたのでしょう。その後、その先生が接骨師の資格を取り、治療を再開したという話は聞きませんでした。その仕事は諦めたのかも知れません。以前は、柔道の有段者でないと、接骨師の資格は取れなかったと言います。皆、とても残念がりました。
                        (2012.11.4記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.50 (佐藤 一)
★梨郷村、自家製の食料と保存食
  写真は、梨郷村の私の実家です。雪に半分埋もれた玄関先です。先月号の写真と同じ家なので、様子を見比べてください。いかに雪が多いかお分かりでしょう。写真の目線から想像出来るように、カメラ位置は玄関の屋根近くです。ですから、手前の方はもっとうず高くなっているのを、玄関に向かって掘り下げているのです。例年なら玄関以外のガラス戸は雪囲いをしてある筈で、コレだと屋根から落ちてきた雪でガラスが割れてしまうかも知れません。

  半世紀前、農村梨郷村の冬の食料は、殆んど自家製の保存食で賄っていました。雪に閉ざされ、町まで買い物に行けないからです。その頃、肉は一年を通して殆んど食べたことはなく、母の実家で飼っているウサギなどを処分した時ぐらいでした。魚は、殆んど干物や塩漬け、味噌漬けの類でした。私が子供の頃、ニシンは大漁で値段の安い魚でした。田舎では昔、ニシンのことを「カド」と言っていました。アイヌ語からきたということです。そして、干しニシンを単に、「ニシン」と言っていました。村では、どこの家でも時期になると、箱で大量にカドを買い入れていました。ニシンにするためです。内臓を取り水洗いして、荒縄で軒下に沢山ブラ下げていました。そして保存のためなので、カラカラに乾くまで充分干しました。内臓の数の子の方は、ムシロに広げて天日干ししました。これもカチカチにかたくなるまで、干し上げます。終いには、茶色に変色してきます。カドを買った日は、生のを焼いて食べたりしましたが、身が軟らか過ぎて小骨も多く、あまり美味しいものではありませんでした。ニシンは主に昆布巻きにて食べました。干し数の子は水で戻し、軟らかく煮た大豆と混ぜて、「数の子豆」として正月に食べました。

  毎年冬になると、梨郷村では、やはりどこの家でも、生のイカを箱で買っていました。隣村の大塚村には魚屋があって、私が舟着場に住んでいた頃は、そこのお父さんが、荷台の大きな自転車に魚をいっぱい積んで売りに来ていました。近所の人達も、普段生魚の多くは、その魚屋さんから買っていたと思います。塩辛い物も多かったので、魚屋さんの自転車は赤く錆びていました。それはさて置き、生イカは、自家製の塩辛にするためです。やはり、雪に閉ざされた中での暮らし方です。塩辛は一度に沢山作って、動物性タンパク質の乏しい冬中、イナゴの自家製佃煮などと共に、毎日食べていました。どういう訳か、父がイロリで真っ赤に焼いた焼け火箸を、時々塩辛の入ったカメにジュッと突っ込んでいました。どこの家でもそうやっていたようなので、何か理由があったのでしょう。その塩辛を、母は時々料理にも入れていました。春先、その塩辛が少し匂ってくる頃になると、殆んど食べ尽くしていました。そういった塩分の多い食生活のせいで、昔は高血圧の人が多かったのです。他に冬に食べていた魚の干物としては、メザシの他に、棒ダラ、カラカイと言ったものがありました。共にカラカラに乾いていて硬いので、ナタで切って水で戻します。そして、煮付けにしていました。「カラカイ」はエイの干物で、骨はサメのように軟骨状で軟らかいです。寒さで、煮コゴリになりました。共に、正月のご馳走でした。

  野菜の干物は、年中作っていました。沢山採れて食べきれないものは、全て漬物か干物にしました。冷蔵庫など、どこの家にもない頃です。漬物よりも干物の方が、独特の風味がありました。里芋の茎は取れたてを煮てもアクが強く、ノドがヒリヒリして食べられません。それでズイキ干しにし、冬の野菜の乏しい時期に、おみお付けの具や煮付けにして食べました。春先、「茎立ち」といって、菜種の葉が沢山生い茂ります。雪国山形ではこれを摘み取り茹(ゆ)でて、ホウレン草のように葉物野菜として食べていました。オヒタシ、煮ビタシにしてよく食べました。まだハウス栽培がなかった頃、この時期山形では他に葉物野菜がなかったからでしょう。菜種油を採るものとは、種を播く時期が違っていたようです。摘み取る時は、茎がポキッと折れる所から摘み取ります。その下は、茎の繊維が筋こ張って食べられません。「茎立ち」というくらいで、摘み取っても次から次と、茎と密生した葉が伸びてきます。食べきれないので、やはり茹でてムシロに広げて干し、保存食にします。冬の、野菜が不足する時期に食べます。主な食べ方としては、水で戻し、油揚、打ち豆、細切りコンニャクなどと共に煮しめにします。他に山菜の干物も同じような食べ方をします。梨郷村では、どこの家でも食べていた家庭料理です。冬季など食料の不足する時期の食べ物ですから、高級料理ではありません。ですから、旅館や料理屋では食べられない素朴な家庭料理です。保存食のオヤツとしては、サツマイモの干し芋、干し柿などでした。

  梨郷村では、味噌は全て自家製でした。味噌を作るには、カマドと、大ナベが必要でした。私の家にはカマドがなく、煮炊きはイロリだけでした。父が屋敷内の土手に穴を掘り、石で補強して、臨時のカマドを作りました。そこに、地区の集会場から借りてきた大ナベをセットしました。そこで水に漬けておいた、大量の大豆を軟らかくなるまで煮ます。そして、やはり集会場から借りてきた、大きなミンチを作るような手回しの機械を、ムシロの上に設置して作業しました。出来上がった物に麹と粗塩を混ぜ、風呂桶のような大きな桶に仕込みます。そして、三年ほど熟成させたものを食べていました。年数が経ち、古くなったものは色が黒くなります。それは、味噌漬け用に回します。味噌漬けの色が黒いのは、そのためです。味噌漬けは、弁当のオカズなど一年中食べていました。味噌漬けに砂糖を入れて甘辛く煮たり、みじん切りにした大根の味噌漬けを、ボタ餅にマブしたりしました。ボタ餅はいろいろ作るのですが、甘いものだけだと口が飽きてくるので、納豆ボタ餅や味噌漬けボタ餅といった塩味の物も作って食べるのです。お餅の時は、味噌漬けボタ餅の代わりに、お雑煮餅になります。昔、農村では、餅は最高のご馳走でした。普段の食事が質素なので、たまに栄養をつけてバランスを取ったのでしょう。そういった時は沢山食べてお腹が苦しくなるので、大根おろしを食べて消化をよくさせるのです。
                       (2012.12.3記載)
拡大写真が出ます打ち豆

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.51 (佐藤 一)
★梨郷村の長い正月は、毎日餅を食べていた
  写真は、降りしきる雪で視界が遮られ、向こうが霞んでいる、旧梨郷村民家の庭先です。最近は農家にも重機があり、広い屋敷の除雪もラクになりました。大抵の農家には、コンバインやトラクター、田植え機の他に、ホークリフトなどもあるようです。皆、人手不足を補うためです。昔はどこの家でも大人数で、農作業をやっていました。男性は、分家する人以外は地元や都会などに就職して家を出る事が多かったのですが、農家に嫁ぐ予定の女性が各家庭に何人かいて、その人たちも農業に従事していました。そして、家事見習いや、冬の農閑期には、洋裁・和裁・生け花など、各教室に通っていました。都会だったら、短大の家政科みたいなものだったのでしょう。私が小さい頃は戦後間もなくで、都会に働き口があまりなかったのです。現在は少子化や過疎化で、農業は殆んど夫婦二人でと爺ちゃん婆ちゃんだけでやっています。兼業農家は旦那は勤めに出ていて、農業は殆んど奥さんと年寄り夫婦だけです。いわゆる、「三ちゃん農業」です。場合によっては、実家に残った老夫婦だけだやっている所もあります。ですから、機械が必要なのです。町まで遠いので、故障した際には自分達で治してしまうのです。百姓は百の職業という意味で、農家の人は何でも器用にこなします。元来そうしないと、暮らせなかったからです。家単位、あるいは村単位の自給自足の暮らしです。その点、都会の人は安易に修理屋に頼ってしまい、本来の農耕民族の生活力を無くしてしまったのです。そして、金がいくらあっても足りない暮らしなのです。

  先月号で、農村の食べ物は、殆んど自家製のものばかりだった、と書きました。正月料理は、暮れにまとめて作りました。正月は、殆んど調理はしません。ご飯も食べませんでした。元日の雑煮に始まり、毎日餅(もち)を食べていました。暮れの納豆を寝せる日や餅を突く日は、大掃除などと共に、年中行事として、日にちが決まっていました。ですからその日になると、どこの家でも朝から一斉に、、何臼も餅を突く音が、ぺったんぺったんと、遠くまで鳴り響いていました。白い餅以外に、豆餅や味噌餅などありました。雪国では冷蔵庫よりも低い気温なので、餅が凍らないように気を使いました。押入れの中に布団を掛けて保存していました。他に一時的な保管場所としては、イロリ端床下の穴倉です。納豆は元々自家製だけだったのでしょうが、少量しか消費しない普段は買って食べていました。しかし正月は沢山消費するために、暮れにまとめて作りました。藁ヅトに入れた煮豆を、布団の中に炭火のアンカを抱かせて作りました。寒いと納豆菌が発酵しないからです。納豆は、焼いた餅に付けて食べるためです。黄な粉やアンコを付けて食べる時には、餅は熱湯で戻しました。他に先月号で紹介しましたように、正月特有のご馳走もあり、お腹がすく暇もありませんでした。しまいには、ご飯の味が恋しくなりました。雪国の冬は、農閑期です。仕事といえば、除雪と藁仕事(わらしごと)だけです。毎日の藁仕事も大変ですが、畑仕事よりはラクです。そういう訳で、冬期は多少の骨休みの意味もあり、長い正月休みを取っていました。

  私の家の正月料理は、祖母は母が嫁に来る前に早世した関係で、母親の実家の料理と全く同じものでした。先月号で紹介したものの他に、私が好きだったものとしては、長芋(ながいも)を輪切りにして、ダシと醤油で煮しめたもがありました。長芋は、粘りが少なく、トロロには向きません。しかし、煮しめると上品な味に仕上がります。長芋のヒゲ根(細長い根っこ)を炎で軽く焼いて取ります。長芋は煮崩れし易いため、皮を剥かないままで煮ます。冷(さ)めたものの方が美味しくなります。長芋の皮は、食べる時邪魔にはなりません。当時は入っていませんでしたが、今は肉など入って、一層おいしくなっていると思います。里芋や長芋は、外来のジャガイモやサツマイモと違って、日本古来の食物です。ですから、芋名月や正月料理など、伝統行事などに使われ、大切に扱われてきたのでしょう。しかし、なんといっても一番美味しかったのは、めったに食べられなかった、置賜地方名産の鯉の甘煮(うまに)でした。米沢藩中興の祖、上杉鷹山(ようざん)公が藩財政改革のために養蚕に着手し、そのカイコのサナギを餌(えさ)に、鯉の養殖が始められました。現在ではインターネット通販で、手軽な価格で食べられるようになりました。上杉鷹山公は、ケネデイ大統領やクリントン大統領の、「最も尊敬する日本人の一人」として知られています。ちなみに、ケネデイ大統領が話題にした時、「上杉鷹山」の名前を知っている日本人記者は、誰一人としていなかったといいます。日本人記者達の質が問われたでしょうか?

  雪国の、野菜の保存法に関しては、先月号で書きました漬物や干物の他に、新鮮な状態で保存する方法もありました。雪が降る直前に、大根などは、塚を作り土中にマトメて埋めました。しかし、後に深い雪を掘り返して取り出すのが大変です。目印に差しておいた木の枝も吹雪で吹き飛んで、正確な場所も分からなくなってしまいます。2メートル近い雪をあっちこち掘って、宝探し状態になりかねません。掘り出した大根を輪切りにして皮を剥いて生で食べると、水々しさと共に、とても甘くなっているのです。植物は凍るのを防ぐために糖度を上げるのです。そういう意味で、一度雪を被った白菜は、軟らかい上に甘くとても美味しいのです。又、寒中に、雪の上に落ちた柿の実の甘さなど、やはり、寒さに抵抗して凍るまいと、懸命に頑張った結果なのです。普通、生の白菜などは雪が降る前に収穫し、泥の根っこを付けたまま、納屋に逆さに吊るしていました。一個一個別々に根っこを荒縄で縛り、並べて釘に吊るしていました。そうすると、かなり長期間もちました。泥の根っこ付き長ネギが、長持ちするのと同じことでしょう。種芋など、万が一にも凍ってはイケないものは、地区の横穴の奥に共同で保存していました。凍らないと同時に、低温で発芽しないからでしょう。
                         (2013.1.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.52 (佐藤 一)
★梨郷村、雪国の子供の生活など
  写真は、亡くなった大伯母の家です。通称「はたや」と呼ばれていましたので、昔は絹織物を織っていたのでしょう。人が立っているのは、昔の本街道です。通りを挟んで左側に、私が小学4年生から上京するまで住んでいた家がありました。ですから、いつもこの辺で遊んでいました。自転車の練習をして、乗れるようになったのも、この場所です。車はめったに来ない所でしたので、子供の遊び場所にもなっていました。この家には、一クラス下でしたが、同い年のハトコの女の子もいました。大伯母には子がなく、養子のお父さんですので、血縁はなかったものと思っていましたが、随分昔には血縁関係はあったようです。ですから、その隣のお父さんと私の父はイトコ同士にもかかわらず、顔は全然似ていませんでした。しかし、父は、母が気分を害する程、毎晩のように隣に入り浸っていて、本当のイトコのようでした。きっと、隣のお父さんは小さい頃貰われて来たので、一回り程年下の父はかなり大きくなるまで、そのことに気付かなかったのかも知れません。叔母さん(父の妹)が小さい頃、里子に出されたのもこの家でした。その叔母さんが、茅ヶ崎から帰省した時、いつも泊まるのは実家である筈の私の家ではなく、この家だったので、母は益々面白くなかった様子でした。父は何かと言うと、大伯母やイトコのおとうさんに相談するなどして、頼りにしていました。父は両親とも、早くに亡くしてしまったからでしょう。そして大伯母に、自分の母の面影を見ていたのかも知れません。

  雪国というのは、晴れの日はめったにありません。いつも空がどんより曇っていて、すぐに雪が降ってきます。一日のうちで、雪が降っている時間の方が圧倒的に多いのです。そして、毎日毎日吹雪ばかりです。ですから、外で遊ぶこと等めったにありませんでした。軒下まで雪があるので家の中は薄暗く、いつも電気をつけていました。そして、コタツに入って漫画本などを読んでいました。江戸時代やもっと昔は、字を読める人も殆んどいなく、本もなかったでしょう。そんな時、退屈する子供たちに、適当に話を作って聞かせたのでしょう。隣の漆山村は「夕鶴の里」と言われています。岩手県とか、長野県とか、民話が多いのは、雪深い寒村ばかりのようです。娯楽の少なかった昔ですから、分かるような気がします。物語はたいてい、夢多きハッピー・エンドです。でも一部の人達にとって、そうやって過ごしていた子供の頃が、一番幸せだったのかも知れません。少し大きくなるにつれて年期奉公に出されたり、特に女性にとっては貧しさにあっては大変な時代だったと思います。つらい子守奉公や紡績工場はいい方で、冷害による凶作の時など、遊郭に売られて行った女性も、少なからずいたでしょう。そういう女性達は、皆20代後半までの短い命でした。多くは、ろうがい(肺結核)で亡くなりました。亡くなる時、彼女たちの胸中をよぎったのは、幼い時に聞いた、お伽(おとぎ)話だったかも知れません。

  私が小学生の頃というのは、まだアルミサッシがありませんでした。板戸又は、木の窓枠に障子紙です。ですから吹雪で毎晩、窓がガタガタ音を立てていました。朝になると窓の隙間から部屋にうっすらと雪が吹き込んでいました。蒲団(ふとん)の中に炭火のアンカはあっても、寝室自体の暖房はありませんでした。かけ蒲団二枚の下に、綿入れのドテラをかい巻き状にかけて寝ていました。それによって、肩口から冷気が入り込むのを防ぐのです。小さい子供にとっては、蒲団は充分大きいので、頭からスッポリかぶって寝ていました。そうすると、とても暖かくて気持ちいいのです。当然、寒さに弱い猫も、いつの間にか蒲団にもぐりこんでいました。一番大変なのは夜中のトイレです。汲み取りトイレで、外にあるからです。吹雪いている表に、ドテラを着込んで出て行きます。おしっこが殆んどなので、トイレまで行かずに、家の前の雪原で済ませていました。もちろん、手なんて洗えません。野中の一軒家状態ですし、子供ですから平気ですが、大人の場合はそうもいかなかったでしょう。トイレの近い、お年寄りは特に大変だったろうと思います。脳溢血など、お年寄りがトイレで倒れたという話はよく聞きました.

  上京して、東京の冬の快適さに感動しました。それで、私は長男なのに、冬の雪下ろしや雪かきががイヤで、両親の期待をよそに、山形に帰りませんでした。実は、田舎に帰る機会は一度だけあったのです。私の父は、建設省の白川ダム工事事務所に出勤途上、交通事故で亡くなりました。私が34歳の時でした。その時、父の上司で、事故処理でお世話になった方がいました。その方に、「もし、山形に帰って家を継ぐつもりでしたら、建設省に勤められますヨ。」と、勧められました。もちろん、国家公務員としてです。私は随分迷いました。田舎で好きな油絵を、存分に描けるかもしれないと思いました。しかし当時、自分の仕事に夢がありました。それと同時に、雪国の大変な暮らしが、頭をよぎってしまったのです。又、建設省の職場に、私の居場所はあるだろうか・・・とも考えました。結局、母には申し訳ないと思ったのですが、断念しました。その後は母は、私がいつ帰って来てもいいようにと、駅の側に家を新築して、広い私の部屋まで作ってくれました。しかし母の死後、除雪など家屋の維持管理が出来ないので、その家を妹にあげてしまいました。
                        (2013.2.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.53 (佐藤 一)
★私が初めて買った時計
  私は子供の頃、カメラと共に腕時計が欲しくて仕方がありませんでした。露天で買った、おもちゃの腕時計などはめて遊んでいました。当時、腕時計は高価で、父の月収分くらいしたかも知れません。高校時代、私は腕時計を持っていませんでした。受験で上京し叔母さんの家に居候した時、叔母さんが時計がないと不便だろうと、金色の時計を買ってくれました。手巻き式で、黒い皮バンドがついていました。その後革バンドがダメになり、本体だけをジーンズのコインポケットに入れて、使っていました。次の年、読売新聞の住み込みアルバイトをしました。同じ店で、やはり住み込みアルバイトをしていた、大阪出身でデザイン学校に通っていた一歳年上の西田君と言う人が、そんな状態で使っている私の時計を見て、少し古い自動巻きカレンダー時計をくれました。革バンドがついていましたが、近所の時計屋でステンレスのバンドを買い、付け替えました。バンドは、誂えた様にぴったりフィットしました。時計本体はステンレスで、文字盤が本体と同様のメタリックで、見る角度によっては白っぽく見えたり黒っぽく見えたりで、とても気に入っていました。

  その時計は5年くらい使っていましたが、自動巻きが機能しなくなり、修理のために動坂下の田端側にあった修理屋さんに、二度めの修理に持ち込みました。動坂下には、当時二軒の時計屋さんがありました。私が飛び込んだのは、質流れ品などを売っている時計修理店の方でした。浅草「デン助劇場」の喜劇役者、大宮敏充さんソックリのお父さんと、中卒直後らしい見習い修理工の店員さんがいました。通勤の帰りによくウインドウを覗いて見ていました。結局修理不能ということで、前から目を付けていたステンレス製自動巻きを買いました。私が25歳の時、初めて買った時計でした。質流れ中古品なので安く、バンドにゴミが溜まりにくそうな形が、気に入りました。自動巻きなので殆んど外すことなく、帰省する時も腕にはめて行きました。梨郷村には店そのものも少なく、近隣の町にも時計の安い店などありませんでした。父がボロの手巻き時計をはめていたので、私のその時計を上げました。私は東京に帰ってから、その修理屋で、やはり同じレベルの質流れ品を買いました。父は喜んで、修理を重ねながら使っていたようでした。結局父が通勤途上、交通事故で亡くなるまで10年近く大切に使っていました。

  両側の休耕田に背丈以上の茅が生い茂り、見通しが悪く狭い道路をバイクで走行中、父は対向車と接触事故を起こしました。父は一瞬、時刻を確認したのかなと思いました。事故後、時計の針は動くのですが、正確な時間は刻みませんでした。その時計は、再び私の手元に戻ってきました。他の故障した時計は全て処分していましたが、この父の時計だけは、捨てられません。揺り動かすと、なんとか針が動き出すのを見ていると、父の最期の想いがこもっている様な気がします。私が三個めに買った時計以来、ずうっとクォーツの時計二つを同時に使ってきました。両方とも時刻を合わせて置き、片方が電池切れになったら、すぐ別の時計が使えるようにしてきました。メインの時計は25年ほど前購入した中級品で、今では珍しいセイコウ角型です。気に入って数回修理を繰り返していますが、メーカーでは既に修理が利かず、去年は王子駅近くの、時計修理専門の工房で修理してもらいました。店舗は構えておらず、インターネット上で見つけました。十人近くの大勢で、主にロレックス等の高級時計を扱っていましたが、直接持ち込んだせいか、修理代は安かったです。
                         (2013.3.3記載)
拡大写真が出ます父の時計

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.54 (佐藤 一)
★母は前歯に銀を被せていた
  私の母は、上の前歯の一本に、銀歯を被(かぶ)せていました。虫歯によるものではなく、オシャレ目的だったらしい。何でも結婚前の若い頃、親に内緒で妹と一緒にやってもらったという事です。その後、厳格な親にバレないように用心していたというのですが、専業農家で朝から晩まで皆接している訳ですから、隠しおおせる筈はありません。まるで、テレビのコントのような話です。父も下の前歯の一本に金を被せていました。一般的には、白い歯に薄い金や銀を額縁状に被せてあるのです。昔流行ったらしく、よく見かけました。ニコッと笑った時、チラッと輝くのがオシャレだったのでしょう。お金持ちの娘でもない母も叔母さんも、自分のお小遣いでやったというから、料金もそんなに高くはなかったのでしょう。私が高校に入った時、そんな銀歯の同級生がいました。ですから彼は中学生の時、すでに銀歯をはめていたことになります。子供がオシャレで銀歯をはめているなんて、さすがに嫌味なカンジがしました。昔の流行の発端と言うのは、多くは映画の影響でしょう。戦時中、中国人に変装した日本人スパイが中国軍に捕まった時金歯をハメていて、「金歯をハメている中国人はいない」ということで、バレてしまったということです。

  今は、歯を白くするのがオシャレのようです。テレビに映るアイドルも女子アナも皆、歯が真っ白です。画面では、白いYシャツやブラウスと同じくらい真っ白に見えます。普通の人でも、歯を白くするのが流行っているようです。確かに、受ける感じは清潔感があり、口臭など全くなさそうに見えます。子供の歯は、普通に手入れしていれば真っ白です。それが歳を重ねるうちに、歯を毎日磨いていても少しずつ黄ばんできます。タバコは元より、お茶やコーヒーのみならず、ある種の抗生物質の薬物などでも、黄ばんでくるという話です。昔は歯を磨くのに、粗塩ぐらいしかありません。粗塩で磨き過ぎると、たちまち知覚過敏に陥ってしまいます。ですから余計、歯の黄ばみが気になったのでしょう。いっそのこと、お歯黒で染めてしまおうということになったのかも知れません。昔は公家の男性も、お歯黒を塗っていたといいます。宵っ張りで、日焼けしてない人達ですから、色白の肌とは対照的に、歯の黄ばみが目立ったからでしょう。江戸時代くらい前までは、既婚の女性は全てお歯黒を塗っていたということです。私は歯槽膿漏予防の歯磨きペーストは使っていますが、白くする専用の歯磨きペーストは使っていません。タバコは吸いませんし、極端に真っ白でなくても、自然な白さで充分だと思っています。

  私は上京後、頻繁に帰省していました。母が六十過ぎの頃でした。ある時コタツにあたって、母と話をしていました。そしてふと母の顔を見ると、銀歯がないことに気が付いたのです。聞いてみると、いつの間にか総入れ歯になっていたのです。それまで、全く気が付きませんでした。母は公務員だった父の遺族年金などで、経済的に余裕の生活を送っていました。いつも暇なので、うたた寝ばかりしていました。甘いお菓子などを食べながらテレビを見て、それに飽きるとうたた寝の毎日でした。父が亡くなってからは一人住まいということもあって、余計そういう暮らしでした。例えば、普段は一人分料理を作るのも面倒になっていました。私が帰省した時だけ一所懸命、料理を沢山作ってくれました。うたた寝の前には、たいてい歯は磨きません。そんな生活の繰り返しで、総入れ歯になったに違いありません。銀歯のない、総入れ歯の母の顔を見ていると、別人のように思えてきました。と同時に、子供の頃いつも見慣れていた銀歯の、母の顔がなつかしく思い出しました。まだ若々しく、さわやかな笑顔でした。白い日傘を差した着物姿が似合っていて、その着物からはショウノウの香りがしていました。思えば、そんなイメージの母は、まだ三十前後だったのです。

  元来痩せていた母が後年太りだし、糖尿病になるなんて、思いも寄りませんでした。晩年、食っちゃ寝の生活と共に、家庭菜園の畑を手放したこともあって、運動不足になってしまったのです。母は、享年七十二でした。
                        (2013.4.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.55 (佐藤 一)
★父は蛇に詳しく、よく捕まえて来た
  梨郷村は、蛇の多い所でした。毎日のように、見かけました。蛇の棲息は、農耕と密接な関係にあると言います。梨郷村は農村でしたから、当然だったかも知れません。田んぼやその水辺では、蛙を捕食するシマヘビを見かけました。屋敷近くではネズミを捕食する青大将を見かけました。人里で、共に暮らす蛇です。大抵単独で見かけますが、あまり人の来ない池などに、数匹も一緒に泳いでいるのを見かけることがありました。農薬の多用などで、餌となる生き物が減ったと思われる現在、その棲息数も減っているかも知れません。私が子供の頃、「蛇を殺すと、タタリがある。」と、言われていました。蛇は頭と内臓を取って、骨だけになっても動いている、執念深くタタる・・・。という訳です。子供というのは、小動物などに対し残酷なところがあり、面白半分に平気で殺してしまったりする。姿形から、蛇を嫌いな大人も多い。可愛い猫だったら殺せないのに、蛇を殺すのは、さほど心が痛まないかも知れない。農薬等ない昔の農業は、天敵に頼る農業です。ですから、農耕生活に貢献し、いなくなっては困る蛇を、前述のような戒めを作って保護しようとした、とは考えられないでしょうか・・・。

  梨郷村は山がちの村です。山菜、キノコは全て近くに自生したものばかり食べていました。そういう訳で裏山に入ると、よくヤマカガシに出会いました。マカガシは近年、毒蛇に分類されました。昔は誰も毒蛇だとは思わなかったので、平気で触っていました。毒牙が奥の方にあるので、噛まれても毒にやられることが少なかったためと言います。マムシは殆んど見かけることはありませんでした。マムシは見つけると高く売れると聞いていました。マムシと思っても、その殆んどは、青大将の幼生かも知れません。青大将の幼生は、体の模様と色ををマムシに似せているのです。マムシは夜行性なのも、見つけ難い一つの原因でしょう。草刈をしていて、マムシに噛まれたことがある、という人の足を見たことがあります。足の形が、ひどく変形していました。田んぼ周辺の作業で、素足に近かったのでしょう。ずんぐりした体形のマムシは身体能力に劣るので、素早く逃げられません。ですから、毒を身につけて自分を守っているということです。人を察知すると隠れて動かず、自分から襲ってくることは決してないと言われています。それだけに、気付かずに踏んづけてしまったりするのです。

  数年前、法事の墓参りで、本覚寺という寺に行きました。境内で一人、あたりを眺めていた時、向こうから大きな青大将がこっちへやって来るのが見えました。草の生えていない、見通しのいい平らな地面です。やや斜め方向に進む形で身をくねらせながら、割と早いスピードでやって来ました。あっけに取られて見ていると、すぐ目の前を通り過ぎて行ってしまいました。体温を感知して、私の存在には気が付いていた筈です。寺か周辺に棲み付いていたのでしょう。青大将は猫と共に、ネズミの被害から農家を守っているのです。農家の人は見かけても、そっとやり過ごしているので、青大将は人を恐れません。野鳥の卵やヒナを狙って、木の上にいるのも、よく見かけました。緑色の保護色なので、いても気が付かないことも多いのです。先の、寺の境内で見かけた大きな青大将は、茶色がかっていました。アマガエルやトノサマ蛙の様に、周囲の環境によって体の色が、多少変えられるのかも知れません。それとも、体の色によって棲み分けているのでしょうか・・・。

  父は時々、シマヘビを袋に入れて、持ち帰りました。母は気持ち悪がっていましたので、自分でさばいていました。元来病弱だった私は、精が付くと言ってよく食べさせられました。衛生兵だったという父の、漢方療法だったのでしょうか・・・。皮と内臓を除いてぶつ切りにし、から揚げにするのです。食感としては骨ばかりで、ウナギの骨センベイのようなものでした。そこいら中にいっぱいいる訳ですから、多分江戸時代ぐらい前までは、シマヘビは一般的に食べられていたのでしょう。特に飢饉の時には、そうだったと思います。料理法も、いろいろあったかも知れません。東京上野駅側の昭和通り沿いには、蛇料理店がありました。店頭の大きなショー・ウインドウみたいな所に、生きたシマヘビが大量に、絡み合っていました。大きなシマヘビばかりだったので、どこかで養殖していたのかも知れません。蛇のお腹から取り出した卵の焼いたものは、ニワトリの卵の味と、あまり変わりませんでした。昔は特に、海から遠い内陸の地方にとっては、貴重な蛋白源の一つだったかも知れません。しかし当時、他所の家でもシマヘビを食べているという話は聞きませんでした。母も妹も絶対、食べませんでした。
                         (2013.5.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.56 (佐藤 一)
★梨郷小学校一年生の時の、担任の先生
  男女の出生比率というのは、どうなんでしょうか。最近では生まれる前から性別は分かっているということです。小中学校の時、私の学年では男子が圧倒的に少なく、全体の三分の一しかいませんでした。第一回目のベビーブーマー世代です。成績のいい子は圧倒的に女子に多く、男子には殆んどいませんでした。そのベビーブーマー世代に対応した、先生の数が必要だったのでしょう。小学校の先生だった人が、学年が進むと、中学校の先生にシフトしたりしていました。中には、小学校で担任だった先生が、高校の先生になった人がいました。偶然、部活の生徒を引率して、私の高校にやって来たのです。多分有能な先生だったのでしょう。私が小学校に入学した時、担任の先生は学校を卒業したばかりの、若くてきれいな女の先生でした。そして、中学三年生の時にも、その先生が担任になりました。その先生、小学生の時に映画で見た、「二十四の瞳」の大石先生にダブって見えました。そして、大石先生に負けず劣らず、きれいな先生でした。

  壷井栄原作の文部省推薦映画「二十四の瞳」は、師範学校を出たばかりの女の先生が、岬の分校に赴任して受け持ったクラス、十二人の子供達との触れ合いを描いた、感動的な映画でした。当時女性があまり乗らなかった自転車に乗り、洋服でさっそうと登校して来るのです。当時の女性は着物姿でしたから、自転車に乗らないのは当たり前です。その映画で舞台となった、瀬戸内の小豆島は全国的に有名になりました。他にも、TBSラジオ「子供電話相談室」の迷解答者でお馴染みだった、無着成恭先生の若い頃を描いた映画、「山びこ学校」がありました。その無着先生は、山形県上山市の小学校の分校で先生をしていた時、「山びこ学校」という詩集を生徒達と発行したのです。寒村の子供達との交流を描いた映画でした。やはり、全国的に有名になりました。教え子の中には、佐藤藤三郎さんという、後に農民作家になった人もいました。主演の無着先生役には、全然似てない、木村功という二枚目俳優が演じました。映画の内容は、眠ってしまったので全く覚えていません。なにしろ映画鑑賞は、一つ村を隔てた町まで歩いて行くので、子供の足ではどうしても疲れてしまい、眠ってしまうのです。「二十四の瞳」にしても、当時、断片的にしか覚えてなく、後年テレビで全編見ました。

  映画鑑賞以外にも、「幻灯」の時間というのがありました。校長室の隣に、窓の無い小さな教室がありました。一クラスで40人の小学生がようやく入れる程度の広さでした。暗い室内で、壁の銀幕にスライドを投影し、先生が話を読み聞かせるのです。昔は小学校の教材として流行ったということですが、私達がそれを見た最期の世代だったと思います。中でも鮮明に覚えているのは、「安寿と厨子王」という物語でした。紙芝居のように絵で描かれた投影画像でした。ご存じ、森鴎外の「山椒大夫」です。内容が悲しい物語で、なんともやり切れない思いでした。実話かどうか分かりませんが、モデルとなった、古い伝承があったようです。「マッチ売りの少女」にしても、悲しい童話が多いのはどうしてでしょう・・・。それが子供の教育に結び付くのでしょうか?後年、インターネット上で、成人し出世した厨子王の、伝承上の報復劇を知りました。それも、それ以上にやり切れないモノを感じました。そして、厨子王には失望しました。モデルとなった物語の伝承の中では、山椒大夫が安寿にしたと同じような残虐なやり方で、復讐(ふくしゅう)の処刑をしたというのです。

  森鴎外の「山椒大夫」では、厨子王に復讐はさせませんでした。そこには、残虐な処刑に対する嫌悪感と、明治新政府によるキリスト教禁止令など、鴎外身辺にまつわる事情があったようです。医師でもあった鴎外は「高瀬舟」で、安楽死のこともテーマにしています。

                        (2013.6.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.57 (佐藤 一)
★梨郷村では、鉛筆をちゃんと持てない子はいなかった
  梨郷村に限らず、私の年代で、鉛筆を正しく持てない子は殆んどいなかったと思います。鉛筆の持ち方に、もう一本棒を加えたものが、箸(はし)の持ち方です。ですから、箸がちゃんと使えれば、鉛筆もちゃんと使えるのです。昔は大家族が多く、個々人、箱膳を使っていました。ちゃぶ台やテーブルと違って、犬食いなどは出来ません。ご飯のお椀(わん)を左手に持ちながら、お膳の皿の煮豆などを、箸でつまむなどします。軟らかく小さい食べ物など、低い位置のお膳から口に運ぶまで、潰さずしかも落とさず、上手につまむ必要があります。正しい箸の持ち方でないと、それが出来ません。

  よく、「箸の上げ下ろしにまで・・・」と、口うるさい例えに使われます。昔は箸の持ち方や食事の作法は、「お里が知れる」と言って、小さい頃から厳しく躾(しつ)けられました。お見合いの席などでも当然、先方の親からチェックされたでしょう。要するに、最低限の行儀作法が出来ているかどうかの目安だったのです。箸も満足に使えないようでは、一事が万事、エチケットも礼儀作法も何もかもダメだろうと言う訳です。昔は、法事や婚礼の席にお呼ばれしたり、和室で会食する機会が多くありました。畳の上に沢山のお膳が並んでいます。隣にそれ程親しくない人も座ったりしたでしょう。食事は食べ方次第では、いくらでも汚らしくなります。酒に酔ったりしていたら、なおさらです。不器用な箸さばきで食い散らかし、お膳や畳を汚すなどして、他人(ヒト)に不快感を与えます。そんな人と杯(さかずき)のやり取りなど、とても出来ません。ですから、最低限のマナーとして、厳しく躾けられたのです。もちろん、ご飯をいただく時は正座です。洋の東西を問わず、食事のマナーは大切なものだったのです。路上の食べ歩きなどは、浮浪者以外しなかったでしょう。どこの世界でも、今食事が出来ることを、神に感謝してから食べました。

  高度成長期になり、都会に核家族が多くなると、テーブルやちゃぶ台を使用するようになりました。従って、食器と口までの距離が短くなります。時には、皿の側まで口を持っていけます。犬食いです。食べこぼしても、畳と違って簡単に拭けます。又、両親とも勤めに出ていたりすると、食事の時間が合わず、子供だけで食事をすることも出てきます。家族一緒の夕食でも、テレビを見ながらです。箸の持ち方など、一部の家庭を除いては、誰も教えなくなってしまいました。当然、箸の持ち方が出来ない子供が沢山出来てきます。そういう子供達が親になると、自分の子供に手本を示すことが出来ないので、教えられません。その子は箸の持ち方が出来ないので、鉛筆も正しく持てないということになってしまいます。弊院の患者さんとして見える、東大生でもちゃんとボールペンが持てない人がいます。よく勉強したのでしょうが、丁寧なんだけど悪筆だったりして・・・。弊院では、カルテの住所・氏名などは、患者さんに記入していただいています。その筆跡からも、手の痺れ具合とか、いろいろな情報が得られるからです。殴り書きや判読出来ないような草書だったりすると、治療受診に対する姿勢や、投げやりな性格なども見えてきます。たとえヘタでも、楷書で丁寧に書いてあると、真剣さが伝わってきて、思わずサービスしてしまいます。

  中年以上の方でデザイン関係の仕事をなさった方ならご存じでしょうが、昔の日本には「溝引き」という技術がありました。毛筆を使って、直線を引く技術です。竹製の物差し(ものさし)の溝は、元々はもっと深く掘ってあって、その溝を使いました。右手に筆とガラス棒を箸の様に持ち、左手で固定した物差しの溝を、ガラス棒でなぞりながら、筆で直線を引いていくという技法です。日本では古来から、これで設計図などの直線を書いたのです。「図面を引く」という言葉は、ここから来たのでしょう。浮世絵の直線もこれで描かれていたところから、最近まで、グラフィック・デザイナーやイラストレーターの間でも、この技法が使われていました。溝引きの実演に際し、その器用さに、ヨーロッパのデザイナー達はびっくりしたといいます。まだ太い文字書体が少なかった頃、新聞広告の太文字や雑誌本文のタイトル・レタリングなども、平筆と面相筆を使い、この技法で書かれていました。雑誌社などに常駐し、字書き屋といって、びっくりするほど手際よく早いのです。箸の文化の、日本人ならではの技法です。初期の頃のテレビの文字テロップも、彼らが手書きしていたのです。しかし、文字の書体が増えた現在では、彼らの高齢化もあって、この技術は廃(すた)れてしまいました。

  私は箸も鉛筆も正しく持てますが、鉛筆の削り方はとてもヘタでした。削った木の部分が芯の長さの割りに短く、私の鉛筆だとすぐ解ると言って、いつも笑われていました。高校受験の前の晩の事でした。父が私の寝ている枕元に来て、何も言わず、私の筆箱をカバンから取り出しました。そして、鉛筆を全部削り直してくれました。父に鉛筆を削ってもらったのは、後にも先にも、その時だけでした。その頃、母は病院に長期入院していて、寂しい毎日でした。きっと、受験がうまくいくように、気にかけてくれたのでしょう。社会人になって、デザイナーになってからも、毎日鉛筆を使っていましたが、鉛筆を削るのは相変わらずヘタでした。もっぱら、電動の鉛筆削り機に頼っていました。現在は、鉛筆の代わりはシャープペンを使っています。鉛筆もシャープも、2B専門です。鉛筆は、イラストの下書きとして使うことが多かったのですが、2Bですと、それが容易に消せるからです。長年使用の、芯の硬さに慣れてしまったので、ノート書きのシャープペンも、2B専門です。
                         (2013.7.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.58 (佐藤 一)
★梨郷中学校に、アイヌ民族の芸能団が来た
  中学生の時、学校に10人程のアイヌ民族芸能団がやって来ました。2時間くらい、講堂で全校生徒が見学しました。多分、文部省の教育の一環として、各学校を回っていたのでしょう。独特の模様が入った、民族衣装を着て、唄や踊り・アイヌ語などを披露していました。中年位の男女で、やや女性の方が多い感じでした。男性は長い髭を生やし、長老みたいな人もいました。女性達は、口の周りに刺青をしていました。もう半世紀以上も前の事ですので、その人達は亡くなっているかも知れません。なにしろ、口の周りに刺青をした、北海道のお婆さんなんて、テレビに映りませんから・・・。日本の先住民族アイヌ人は、かつて日本全土に住んでいたといいます。富士山の「フジ」は、元々アイヌ語からきているというものでした。長万部(オシャマンベ)とか、北海道の地名になると、明らかにアイヌ語という感じです。アイヌには文字がなく、縄の結び目でその代わりをしていたということです。「ユーカラ」といって、単純な楽器で唄っていました。

  その時聞いた話ですが、白川以北の東北人の殆んどは、アイヌの血が混じっているということでした。顔の特徴としては、彫りが深く、頬骨が出ているそうです。気が付いてみると、私の周りや親戚縁者達は多かれ少なかれ、皆そうです。中には、日本人らしからぬ顔立ちの人もいますし、髪の毛が多少赤い人もいます。アイヌは縄文人なのでしょうか・・・。縄文式土器や弥生式土器は聞いても、アイヌ式土器なんて、聞いたことがありませんから。縄文人は、栗やドングリなどを食料にしていたといいます。実際、母の実家近くの古い民家の庭先には、大きなドングリの木がありました。椎の実にしては、大きな実を付けていました。飢饉の時などに、アク抜きをして食べていたのでしょう。私は子供の頃、自生している榧(かや)の実や、菱の実も食べたことがあります。お米はなくても、自然薯(じねんじょ)やクズ・蕨根などの澱粉質の食物は、いろいろあったと思います。そして、野生動物の肉や魚も食べていたでしょうし、多少の畑だって耕作していたようです。原野が水田や畑と化す中で、野生動物の猟場を求めて、北に移動したアイヌの人達がいたでしょうし、移動に消極的で留まった人達もいたでしょう。弥生人と共に接していれば、イサカイもあったでしょうが、緊急災害時など、助け合うこともあったでしょう。そして、弥生人と交流混血する中で、弥生人の先進の水田稲作農法を、取り入れていった人達もいたでしょう。後者の末裔達も含めての、東北人なのかも知れません。       

  かつて、国語辞典編纂で有名だった、金田一京助という人は、アイヌ語の研究でも知られていました。確か、中学校の国語の教科書だったと思います。日本の領土だった樺太で、アイヌ語を収集した際のエピソードが載っていました。樺太と北海道のアイヌ語は、違っていたそうで、北海道アイヌ語が全く通じなかったそうです。極寒の海で隔絶され、交流がなかったのでしょう。その教科書に載っていた、「ヘモイサパ」という言葉、今でも覚えています。以前は日本でも、津軽弁と鹿児島弁は、他県の人が聴いても、全く理解出来ないと言われていました。当初は同じ言葉だったものでも、長期間の地理的隔絶と時を経るに従って、言葉を全く違うものにしたのでしょう。活気に満ちた都会の言葉は、流行語を吸収し、どんどん変化して行くのに対し、地方は保守的で変化に乏しく、ですから地方へ行く程、古い言葉が残っています。
                        (2013.8.1記載)
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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.59 (佐藤 一
★旧梨郷村の子供達も知らない、使われなくなった方言
  以前にも書きましたが、東北など寒冷地に住む人達は、口を大きく開けずに話します。ですから音声がこもって、滑舌(かつぜつ)が良くありません。又、言葉を短縮して発音します。無意識にせよ、冷たい空気を多く吸い込むことによる、呼吸器疾患を防いできたのでしょう。他の地方の人達が聴くと、何を言ってるのか解らなくなってしまいます。江戸時代以前など、昔は人々の移動や交流が少なく、同じ地域の人としか話す機会がなかった訳ですから、それで充分コミケーションは、取れていたのでしょう。

  昔は岩手など、オホーツクからの山背(やませ)が吹くと、冷害で米が凶作に見舞われたといいます。そんな時、貧しさの余り、娘達が遊郭に売られたということです。彼女達の方言を隠すために、吉原の「おいらん言葉」が出来たといいます。「・・・で、ありんす。」とか、「・・・で、おくんなまし。」とか言うものです。多分当初は、言葉が全く通じなくて困ったのでしょう。ちなみに、作家の太宰治というペンネームも、東北訛(なま)りを意識したものだったといいます。太宰は、青森県津軽の出身です。本名は津島です。東北弁で発音すると、「つすま」になってしまいます。太宰は、自身が東北訛りが抜けないのを、気にしていたかも知れません。名前と言えば、梨郷村の男性で、「何々衛門」という人が多くいました。その名前が受け継がれて、屋号になっている家もありました。一般的に梨郷村の旧家では、将来跡取りとなるべき孫に、自分と同じ名前を付ける風習があったようです。そいう人達の名前は、やはり短縮して発音していました。例えば「弥衛門」は「やえム」で、「嘉衛門」は、「かえム」で、「又衛門」は、「またえム」と発音していました。昔は他の地方でも、そういう呼び方をしていたのでしょうか・・・。

  朝、農家の人達が畑仕事に行く途中、顔を合わせます。決まって、「やんべだナシ」と、挨拶していました。本当は、「(お天気が)いいアンバイですネ」ということなのです。お天気は、暗黙の了解です。ナシ(ナス)は、丁寧な言い方です。言われた方は、「んだナシ」と返します。「んだ」は、「そうだ」ということで、つまり、「そうですネ」ということです又、「爺っちゃん」などの「ん」を省略して、「爺(ず)っちゃ」と言っていました。同様に、「婆(ば)っちゃ」、「兄(あん)ちゃ」になります。「ん」に関しては、「馬」は「んま」と発音し、「梅」は、「んめ」と、発音していました。東京の下町でも、そういう発音はしていました。本来、「ん」で始まる言葉は無いと、言われています。そうなると、言葉遊びの「しりとり」は、終わらなくなってしまいます。昔、江戸の下町では、「しりとり」遊びはしなかったのでしょうか・・・?

  あなたが男性だとして、梨郷村の民家などに泊まって、そこの家族と夕食をご一緒したとします。そして、テーブルの向かいの席で食事をしているその家の娘が、あなたの顔をじっと見ながら、「スケベ!」と言ったとしたら、どうしますか・・・?そんな時は、別に慌てふためく必要はありません。適当にニコニコしていた方が無難かも知れません。実はあなたが食べていたのは、酢の物に違いありません。「スケ」は、「酢ケ」つまり「酢っかい」を短縮したのです。つまり娘は、その酢の物が「酸っぱいでしょう!」と言って、あなたのお口に合うかどうか、気を使っていたのです。なんか東北弁って、楽しくなってきますネ。一方では、「東北弁をお笑いネタにするな。」と、文句を言う人もいます、

  実は、梨郷村には、日本語の平仮名で書けない発音が存在したのです。今でも、お年寄りの人達など、言っているかも知れません。や行は、「や・い・ゆ・え・よ」、ローマ字で書けば、「YA・I・YU・E・YO」の筈ですが、「YA・I・YU・
YE・YO」の「YE」と言う発音があったのです。実は「YE」を漢字にすると、一つは「家(いえ)」なのです。又、「要らない」と言う時も、「YE」と言って断ります(「いい!」の、なまった言い方です)。しかし、その音声に当てはまる、日本語の平仮名はないのです。どうも、や行というのは不思議な存在です。他に、「い」を「ゆ」と発音する地方は多いようです。「岩井」を「ゆわい」、「言う」を「ゆう」と発音する等です。古い時代の発音なのかも知れません。古代の人達の言葉は、現在と違った発音をしていたといいます。
                         (2013.9.3記載)

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 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.60 (佐藤 一)
★梨郷村粡町、漢和辞典に載ってない「粡」の文字
  「粡町」は、「あらまち」と読みます。父の死後、母は以前住んでいた交通不便な開拓地区から、梨郷駅に程近い、梨郷粡町という所に家を新築して引っ越しました。私が子供の頃は、梨郷村大字梨郷粡町と言っていた所です。村の下に町名が付く、変わった住所でした。それというのも、旧伊達藩の頃梨郷を治めていたのは、奥方が伊達政宗の乳母だった人です。山城跡と、最上川近くに館跡(たてあと)の巨大な土盛りがありました。山村・梨郷村は要害の地で、一方で物資輸送に便利な最上川に面し、軍事的にも重要な拠点だったと考えられます。そして城下には粡町の他、酒町、上町といった町名のついた人口密集地がありました。つまり小規模ながら、城下町の体をなしていたのです。

  国替えで上杉の時代になってからも、下級武士達の開墾入植の地として、武家の多い村でした。旧家の殆んどは屋敷の構えも立派で、土蔵を備えた養蚕農家でした。それと言うのも、米沢藩中興の祖・上杉鷹山公は、養蚕を導入し奨励したからです。下級武士達の入植地を、そのモデル地区の一つにしたのでしょう。母が以前住んでいた開拓地区というのは、戦後満州から引き上げて来た人達が入植した所で、江戸時代以前の開拓地区とは別の地域です。梨郷村は盆地のヘリです。平地が少なく山地が大部分なので、古来から開拓の歴史です。

  「粡町」という地名は米沢市内の他に、置賜地方に数多く存在します。粡というのは、砕け米・屑米のことで、私が子供の頃はニワトリの餌にしていました。しかし江戸時代以前など、飯米の乏しい小作人達にとっては、粡も同じお米ということで、無駄にしなかったに違いありません。石高を減らされて貧しい小藩になってしまった上杉藩にとっては、なおさら大切なお米だったでしょう。上杉鷹山公は、自ら率先して、質素倹約を旨としました。そして、藩の財政改革を断行し建て直しました。昔、お米は石高で示すように、お金の代わりでした。お米は藩の財源確保と借金返済のために、なるべく多く売却しなければなりません。他方藩内では、売り物にならない粡を活用したと考えられます。それで、米沢を含む置賜盆地には、粡町という地名が沢山存在するのではないでしょうか・・・。地名に名付けて、浪費を戒めたと考えられます。

  「粡」という字は漢和辞典にも広辞苑にも載っていません。従って、パソコンで漢字変換は出来ません。現在では多くが、「あら町」と、平仮名表記しています。私は偶然インターネット上で拾ったものです。漢和辞典に載っていないということは、日本で作られた漢字かも知れません。漢和辞典には、「あら」でも、「粗」という字が載っています。本来は屑米つまり粗末なモノということで、「粗」がふさわしかったのでしょう。しかし、貧しい米沢藩などの小藩にとっては、先に述べましたように、砕けてはいても、元は同じお米という事で大切に思い、「粗」の字を使うのは忍びなかったのでしょう。そのせいか、岩手県や他の県にも「粡町」は存在するようです。岩手県は、オホーツクから吹く山背で、たびたび凶作に見舞われた所ですから、なおさらでしょう。小作人達は、年貢米を納めた後、自分達の飯米すら満足になく、粡に糧(かて)を混ぜた雑炊を食べていたかも知れません。
                       (2013.10.9記載)

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