ヘッダーイメージ 本文へジャンプ

「りんごう村」
バックナンバー
本文

梨郷村BNへ


 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.61 (佐藤 一)
★旧舟着場の家は、断崖絶壁の上に建っていた
  旧舟着場の家は、私が小学四年生まで住んでいた家です。旧建設省の用地買収に合い、もうありません。最上川は鉄道が開通するまでは、古来から交通・輸送の主流でした。梨郷村の旧舟着場は、最上流の常設舟着場があったという所です。鉄道の駅のような所で、農村では数少ない、交易の場所も兼ねていたのでしょう。父方祖母の実家は、代々そこで、ちょうちん屋を営んでいたといいます。そして、祖母の弟が長男として家業を継いでいました。しかし、橋もかかり、鉄道が輸送の主役となり、舟着場がさびれるに従って、商売が成り立たなくなったのでしょう。戦前の昭和初期、その大叔父一家はちょうちん屋を廃業し、ツテを頼りに神奈川県の茅ヶ崎に引越しました。空き家になったその家に、結婚したての父母が住み付きました。家族は妹も入れて四人と、時によって犬・猫・ヤギでした。一棟だけでしたが、かなり大きな家でした。以前は前庭に、納屋などもあったかも知れません。店舗兼住宅だったということで、一階の間口が広く、その内側いっぱいに、二メートル幅くらいの土間になっていました。私達が住んでいた時は、店側の引き戸は全部締め切り、土間の端にドアを作って、そこから普段の出入りをしていました。

  最上川は日本三大急流の一つで、梨郷村と隣の西大塚村の境を流れていました。その急流と、春先の融雪に始まる度重なる洪水のために、明治中期までは橋がかけられませんでした。ですから、舟着場は、西大塚側にもあったに違いありません。洪水で流されてしまったのか、その痕跡は全くありませんでした。西大塚側には、川から少し離れた所に、水運で栄えたと思われる街並みがありました。そこは、商店や診療所、小中学校、役場などもありました。離れた所に国鉄西大塚駅が出来た後でも、旧西大塚村の中心地として栄えていました。西大塚村は人工も多く、置賜盆地の中心寄りですので、お米など物資の輸送量は、梨郷村のそれより、はるかに多かったに違いありません。ただ、舟着場の西大塚側は、他の盆地内より低い遊水地状態でした。ですから、西大塚側の舟着場は、梨郷側の真向かいにあったとは限らないかも知れません。同じ川筋の、街並み近くにあったのかも知れません。私は旧舟着場の広場で三輪車遊びをしながら、いつも母の通っていたという、小学校を見ていました。時折、風に乗って、生徒達の歓声が聞こえていたからです。舟着場周辺で畑仕事をする梨郷村住民達も、その学校のサイレンの音を時計代わりにしていました。旧舟着場には、川とやや平行に、広場のような道路が延びていいました。

  私が物心付いた頃は、真新しいコンクリート製の橋と、それに付随して出来たらしい国道が延びていました。舟着場の広場から見上げると、かなり高い位置にあり、まるで大空にかかっている橋のように見えました。すぐ側には、旧木造橋ゲタの残骸が幾つも、水面下に見えました。その木造の、初代・幸来橋は、明治中期に造られました。梨郷村の旧家が発起人になり、寄付や県からの予算獲得によって、建設されたといいます。そして、当初は通行料を取っていたといいます。ですから、梨郷側には、料金所があったでしょう。私の家の屋敷前、旧道に面した一角には、初代幸来橋建設記念の大きな石碑が建っていました。「幸来橋」はその名のとうり、かねてからの念願で、期待するものが大きかったのでしょう。しかしそれは、鉄道開通に先立って、舟着場がサビれる第一歩になったのかも知れません。梨郷側の旧舟着場広場の道路は、最上川の北側に接していて、西側の下流に行くにつれて川からやや離れて行く感じの地形でした。私の家は坂を登る形で、やや高い位置にありました。

  私の屋敷の入口側に、目印のような一本松が植えてあって、そこから道路が、北側500メートルほど先の、山麓集落の街道まで延びていました。それは、荷馬車が通れる程度の道幅でした。昔は舟着場に通じる唯一の道路だったのでしょう。私が小さい頃は両側が桑畑で、農道として利用されていました。やがてお米増産が叫ばれた頃、その辺一帯は水田と化し、その道路も水田に埋もれて無くなってしまいました。舟着場の梨郷側は、山脈に面して耕地面積の少ない所だったので、人家も少なく物流の量もそれ程多くなかったと思います。倉庫や馬屋、茶店や雑貨屋などが主で、旅籠などはあったかどうか解かりません。数軒の倉庫や店などもあったということですが、私が住んでいた頃は隣りと二軒だけになっていました。隣りは広場の道路側に開放的な座敷があって、茶店のような造りでしたが、当時は純粋の農家になっていました。隣りは川面からそれ程高くない位置にあったので、洪水になると、いつも床上浸水に見舞われていました。私の家は坂を登った比較的小高い位置にあったので、床上浸水は多くありませんでした。しかし周囲は湖状態になるので、消防団の舟が来ないと学校に行けませんでした。大雨が降り、半日経つと川の水カサが溢れるので、年に数回起きる洪水の予測と対策は簡単でした。

  私の家は百年以上も経たような、しかし頑丈な茅葺屋根の家でした。鉄道が開通する前、最上川の輸送が盛んな頃のちょうちん屋は、裕福な暮らしをしていたようです。雑貨屋なども、兼ねていたかも知れません。二階には、遠く神奈川に引っ越す時に、持ちきれなかったと思われる、写真アルバムが沢山残されていました。家族と思われる、日本髪姿の女性や子供の写真もいっぱいありました。全て着飾った、着物姿でした。知らない顔ばかりだったので、だいぶ以前のものだったのでしょう。昔は、写真屋さんを町から呼んで、写真を撮りました。ですから、高価なものだったのです。やがて舟着場はサビれ、商売が成り立たなくなったのでしょう。大切な写真を沢山置いて行かざるを得なかった気持ちは、察するに余りあります。私は小さかった頃、退屈すると、二階に上がっては写真を見ていました。大叔父一家は、神奈川県茅ヶ崎の萩園に移住し、専業農家になりました。旧舟着場は農村で、八百屋などありませんから、農作業の経験もあったのでしょう。後に、大叔父のツテを頼って茅ヶ崎に就職して移住した、父方の親戚は多くいます。

  私の家は、屋敷入口に通じる坂道以外の周囲は、切り立った崖のようになっていました。特に南側の川に面した台所側の崖は10メートル以上ありました。周囲の崖は、頻繁に繰り返される洪水に洗われていましたが、崩れることはありませんでした。子供の頃は気にも止めませんでしたが、草で覆われていた土手の内部は、石垣だったかも知れません。川に面した井戸や風呂場があった南側は地盤沈下したらしく、他の床面より少し低くなっていました。しかし、地盤が崩れることはありませんでした。店先だったと思われる東側正面は、荷馬車数台が入れる程の、広いスペースの前庭になっていました。端っこに大きな紅葉が植えてあってその先も深い崖になっていました。崖下は雑木が密生して不気味な程でした。子供だった私は上から眺めるだけで、とても降りる気にはなれませんでした。この辺りは、蛇も多く棲息していたので・・・。川に面した崖下は、開けた林になっていました。そこには高い落葉樹の木々が生えていましたが疎らで、下草がよく生えた所に日中ヤギをつないだりして、私の格好の遊び場所になっていました。川までは細い通路になっていて、その先の川岸には、いつも二・三そうの舟がつないでありました。正規の舟着場だったと思われる所から少し離れ、物陰になっていたのは舟の盗難防止もあったのでしょう。地域の村人達が時々集まって、その舟で漁をしていました。

  家の西側は川沿いに、小山が連なっていました。昔、蛇行した川筋を直すために掘り変えた時の、残土の山「ホリケヤマ」です。その一部は川の流れにエグられ、柵のない通路から見下ろすと、目もくらむ断崖絶壁になっていました。その旧舟着場は前述のように、旧建設省の用地買収による河川工事で、跡形もなく平らになってしまいました。近くの場所に作られた堤防に、その山の土砂も使われたからです。
                        (2013.11.8記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.62 (佐藤 一)
★子供の頃、梨郷村で食べていた麦飯
  私が小学生の頃、日本ではまだまだ米不足でした。米の増産が叫ばれ、畑が次々に水田に変わっていました。水量の豊富な最上川と共に、揚水ポンプの発達も、その拍車をかけていました。中には畑に栽培する、陸稲なんていうのもありましたが、食味がイマイチということで、評判はあまり良くありませんでした。案の定、すぐに作られなくなりました。米不足の一因には、戦後満州などから大勢の人が引き上げて来て、食糧不足になったせいもあったでしょう。農村ではどこの家でも、麦飯を食べていました。吉田内閣の大蔵大臣だった池田隼人という人が、「貧乏人は麦を食え」と言ったとかで、話題になりました。本当はまだ日本は貧しかった上に米不足だったので、「麦飯を食べて協力して欲しい・・・」という意味だったようですが、新聞記者達のうがった見方で、捻じ曲げられてしまったようです。当時の新聞記者というのは戦争に協力しておきながら、寛大さに欠けた、そういう人達です。負け戦を「連戦、連勝・・・!」と報じ、扇動した人達です。

  渡来人と共に、南方から渡ってきた稲作を日本に定着させるには、先人達の甚大な努力を要しました。日本人の品種改良と努力で、満州や北海道などの寒冷地でも、稲作が可能になったのです。日本史の教科書に、古事記発祥についての記述が載っていました。「稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦し、太安万侶が編纂した・・・」と。昔、用水に恵まれても稲作に適さない寒冷地では、稗を植えていました。ですから、稗田は古事記編纂以前からあったものでしょう。現代では、田んぼの雑草として、稗がはびこっています。抜いても抜いても次から次と生えてきて、きりがありません。昔、その場所や近くには、稗田があったからでしょう。このように、稗は病害虫に強く繁殖力旺盛です。ですから、お米に混ぜて炊いたり、稗だけのご飯として食べていたのでしょう。しかし、あまり美味しくなかったのかも知れません。それで、食味のマシな、麦飯になったのでしょう。ご飯に混ぜる麦は、「押し麦」と言って平べったく、真ん中に黒いスジがありました。ご飯が炊き上がると、上の方は麦だけの層になるので、よくかき混ぜて食べていました。毎日毎日、麦飯ばかり食べていましたが、トロロかけご飯などは、それなりに美味しかったです。

  そんな中で、たまに麦の入ってない白米を食べると、その香りと美味しさに感動しました。昔は、ササニシキもコシヒカリもありません。品種といえば、農林一号とかの農林二号とかいうものだったでしょう。しかし、ご飯そのものが美味しいので、オカズなんて何でも良かったのです。考えてみますと、お米は古来から信仰にも似た、日本人の食文化です。日本の年中行事には、稲作に由来するものが殆んど、と言っても過言ではありませんでした。天皇陛下ご自身も、宮中で田植えや稲刈りをなさいますし、新嘗祭を執り行います。かつて農村では毎朝、神棚にご飯を供え、今日ご飯が食べられる事を神様に感謝し、豊作を祈願していました。田植え直後など農作業の節目には、必ず餅をついて神棚に備えていました。ですから、月に一度くらいの割りで、あんこ餅やずんだ餅・ゴマ餅・クルミ餅・納豆餅など、数種類の突き立ての餅を食べていました。子供の頃、農村にあっては、餅が最高のご馳走でした。相撲も、五穀豊穣の神事としての発祥です。ですから、穫り入れ後秋祭りの神社では、奉納相撲が毎年行われていました。神道にも絡んで、言わば、お米は日本人の命と心です。日本でお米が作られなくなった時、日本の伝統文化と精神構造の多くは、失われてしまうでしょう。

  TPPがお米に適応されますと、日本の米専業農家の大半は立ち行かなくなります。付加価値を付けた値段の高い米なんて、殆んど売れません。安全なお米を中国の富裕層向けに・・・等と言っていますが、いくらモノが良いといっても、日常的に高級米を買うでしょうか・・・?安全で美味しいお米なんて需要さえあれば、アメリカに限らずオーストラリアでもベトナムでもタイでも、日本から種を持って行けば、どこでも安く作れるんです。きっと、日本向けに、量産するようになるでしょう。いくら日本の大規模農場でも、コスト的には、とても太刀打ち出来ません。結局は彼らも、生き残りを賭けて、海外生産に踏み切るでしょう。一般兼業農家は、得だと思えば、お米を買って食べるようになるでしょう。私が半世紀前に、アメリカ人宅で食べたカリフォルニア米のご飯は、とても美味しいものでした。戦前に国策としてアメリカに移住した、日本人開拓農民達が持ち込んだジャポニカ品種ですから、当然と言えば当然です。恐らく、田んぼとして日本で生き残るのは、観光用の棚田だけかも知れません。
                       (2013.12.1記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.63 (佐藤 一)
★半世紀以上前、梨郷村のお風呂事情
  私が小さい頃、風呂はどこの家でも、毎日は立てられませんでした。昔のことですから、当然、薪で焚いていました。戦後ハゲ山になったので、薪が不足してたのかも知れません。井戸水ですから、夏は冷たいので、汲み置きしていました。それでも、風呂を沸かすのに一時間くらいかかりました。木製の丸い風呂桶に、鋳物のカマドと煙突が付いていました。浴槽内のカマドの側には、入浴中のヤケド防止に、仕切り板が付いていました。薪風呂を焚いている最中は、ガス風呂と違って、火の番をしていなければなりませんでした。薪が燃える時、燃えカスがパチンパチンと、飛び跳ねて来るからです。まだアルミサッシが無い頃でしたので、風の強い時は家の中にも吹き込みました。ですから、必ず火の番が必要でした。近くの柱には大抵、お不動様のお札が貼ってありました。そして、火が消えないように、時々新しい薪をクベなければなりません。私が中学生になってからは、風呂汲みと風呂焚きは、もっぱら私の役目でした。昼間、学校から帰ってから、薪を割るのも私の仕事でした。特に冬が来る前は沢山割って、積み置きしていました。

  冬場は汗もかかないので、風呂を立てるのは週に一・二回でした。時々、近くの親戚で貰い湯などしていました。夏場でも、毎日風呂を立てられる家は、少なかったと思います。夕方農作業が終わると、大人達も最上川で、牛や馬を洗いながら水浴びをしていました。下着は、風呂に入った時に取り替えていました。冬場の洗濯物は、中々外に干せません。雪国は晴れの日が少なく、いつもすぐに雪が降ってくるからです。納屋の中とか、土間に干すのですが、すぐに凍ってしまいます。まだ家庭用洗濯機が無い頃だったので、風呂の残り湯を使い、手洗いしていました。そんな状態でしたから、下着を何日か着ていました。半世紀前の東京オリンピックの頃、麹町二丁目の豪邸に住む、実業家の対談が、雑誌の載っていました。「毎日風呂に入るようになると、田舎から来たお手伝いさんも毎日下着を取り替えるようになる・・・」と、言っていました。当時は、そんな時代だったのです。当然、ノミ・シラミはどこの家にもいました。

  私が毎日のように風呂に入れるようになったのは、上京して銭湯に通うようになってからです。風呂賃はとても安かったのですが、大変混んでいました。初めて銭湯に入った時は、熱くて、中々湯船に入れませんでした。昔は雑菌対策で、温度を高めに設定していたそうです。それでも暫くすると慣れて、熱い風呂でも平気で入れるようになりました。しかし、今では銭湯の風呂賃が、とても高くなりました。毎日銭湯に行くと、一箇月30日計算で、¥13,500になります。銭湯が次々に廃業し、風呂の無いアパートでは暮らせなくなりました。ですから、今は最低限の生活基盤として、(小さな風呂付か)シャワー付きワンルームのアパートが多くなりました。昔は、やはり先の東京オリンピックの頃ですが、千代田区の九段あたりでも、複数の銭湯があり、一方が休みの日には別の銭湯に通っていました。今の千代田区には、おそらく一軒の銭湯もないでしょう。四十年ほど前、駒込病院真ん前の、千駄木の三畳間に住んでいた頃は、近くに四軒もの銭湯がありました。

  近くに銭湯が無くなってお困りの方、それでもゆったり大きなお風呂に毎日入りたいという方、耳よりな情報があります。中年の患者さんから聞いた話です。それは、スポーツクラブの会員になることです。スポーツクラブには、汗を流した後に使う、ジャグジーなどの着いた豪華なお風呂があります。会費は、毎日銭湯に通うよりも、かなり安いといいます。それで、スポーツに全然興味がないのに、風呂目的で会員になっている中高年がいるという事です。しかも、昼間空いた時間に何回でも入れます。気晴らしに、ウォーキング・マシンなど使えば、一年中天候に関係なく、足腰が鍛えられます。年金で楽隠居の方には、こたえられないでしょう。それを聞いた時、「なるほど、考えたものだなあ・・・」と、思いました。だいたい、銭湯に来ているお年寄りというのは、殆んど内風呂がある人達です。朝風呂もそうですが、広々とした湯船でゆっくり入りたいという人達です。ですから、スポーツクラブの風呂は、打って付けだと思います。
                        (2014.1.1記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.64 (佐藤 一)
★梨郷村の飲み水は、天然のミネラル・ウォーター
  旧梨郷村は現在、上水道が普及しているようですが、昔は水道なんてありません。梨郷村は殆んどが山林で、民家は盆地の山麓に沿って点在していました。最上川の水害を避けるためです。農家の多くは、裏山から湧き水を引き込んで利用していたようです。台所の水槽には常時、ポンプなしで水が流れ込んでいて、冬も凍る事はありませんでした。農家の前庭には野菜や農機具などを洗う池があり、台所で溢れた水がいつも注いでいました。水質は良く、美味しい水でした。隣村の母の実家も農家でしたが、山から離れた平地でしたので、深い掘り抜き井戸を掘って使っていました。深い粘土層の下にある地下水脈まで井戸を掘ると、圧力で水が噴出してくるのです。ただ、母の実家の井戸水は鉄分が多い赤みを帯びた水で、美味しくはありませんでした。私が通っていた頃の、梨郷小中学校は井戸水をモーターで汲み上げて使っていました。蛇口に触ると、ぴりっと電気が来ている時がありました。水質は悪く白いタオルを洗濯すると、たちまち赤茶けてしまうような、鉄分の多い井戸水でした。そのせいか、貧血の人は、少なそうでした。

  山へ行った時などは、泉の湧き水をすくって飲みましたが、いくら清流といえども、谷川の水は飲めません。寄生虫やその卵がいるからです。野鳥が水にもぐって魚を取ったり、水生生物や野生動物の糞なども混入しています。渓流の魚や川エビ、甲殻類にも、ジストマなどの寄生虫がいます。昔は、川魚を刺身にしたりしませんでした。現在、旅館などで出される岩魚(いわな)の刺身などは、井戸水のイケスで育てたものでしょう。谷川の水は生では飲めませんが、秋の芋煮会などでは、熱を通すので、谷川の水を使っていました。田舎の子供達は、沢ガニをツカんだその手で、オニギリを食べたりはしませんでした。

  私の家では、飲み水には、あまり恵まれませんでした。旧舟着場に住んでいた頃は、深井戸に鋳物のダルマポンプでした。山麓から遠く、すぐ側の川面からも高い位置の屋敷だったので、水の出はあまり良くありませんでした。四人家族の小人数だったので、風呂や飲み水など、どうにか賄えました。以前ちょうちん屋だった頃は整備されていて、もっと機能していたと思います。小学四年の時、山麓近くの大叔母の家隣に、家を新築して引っ越しました。舟着場の家が、建設省の用地買収に合ったからです。しかし、新しい屋敷に掘った井戸水もあまり良くありませんでした。ある時など、井戸水が生臭くなったと思ったら、モグラのちぎれた手脚がポンプから一緒に出てきました。新しい家を建てる前には、夏の渇水期に井戸を試掘して、地下水脈が充分あるかどうか確かめてから、そこに家を建てます。しかし、農家でないと、限られた場所にしか土地が確保で出来ません。さらに、屋敷内に井戸と便所を作る関係で、その距離を確保するのと、便所を地下水脈の下流側に作る必要があります。それらは、地形で判断して決めます。

  私が上京後、父は戦後出来た開拓地区の入口山間部に家を新築して引越しました。そこに、家の畑があったからです。家を建てる前、春先に井戸を試掘した時には充分水が出たのに、真夏には殆んど出なくなってしまいました。山の側だったのですが、地下水脈から外れていたのでしょう。それでは、季節によって充分水が賄えなくなってしまいます。飲料水は毎日の暮らしの中で、最も大事なものです。しかたなく、近くの場所に井戸を掘らせて貰い、そこからモーターで揚水することにしました。そういった事を考えると、水道は本当に便利なものです。私が中学生の頃、梨郷地区の山の中腹に大きな溜池を作り、住宅密集地域だけに水道が引かれました。今の旧梨郷村の殆んどは、最上川の水を浄化して、水道水にしているかも知れません。昔と違って、場所によっては畜産公害などもあるようで、安全な井戸水を確保するのも、難しくなっているかも知れません。
                       (2014.2.1記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.65 (佐藤 一)
★梨郷村、雪国生徒の防寒ファッション
  私は父母の期待に反し、雪下ろしがイヤで田舎へ帰りませんでした。梨郷村は、冬以外はとても良い所なんです。山菜やキノコなども豊富で、暮らしやすいです。職業としては大変な農作業も、家庭菜園程度ですと、楽しいです。しかし、冬期の労苦を考えると、そんな気持ちなど吹っ飛んでしまいます。雪国の冬は快晴の日なんて、めったにありません。空はいつもドンヨリしていて、すぐに雪が降ってきます。一日中雪や吹雪の時も多いのです。軒下まで雪があるので、家の中は昼なお薄暗く、暖房のない部屋は当然0℃以下です。子供の頃は外でめったに遊べないので、猫と一緒に蒲団に寝っ転がってマンガばかり読んでいました。マンガ雑誌は月刊誌しかありませんでしたが、付録が沢山付いてきました。小学生の時、「鉄人28号」の連載が始まりました。ちなみに、鉄人28号は当初、制御不能で暴走したのです。それを抑えるために鉄人27号を投入したのですが、性能的にかないませんでした。

  朝、水が冷たくて、歯磨きなんて満足に出来ません。顔なんて、タオルで多少拭くだけです。外のトイレも寒かったです。吹雪の中、通学するのは、もっと大変でした。小学生の時、私は学校まで、クラスで一番遠い所でした。朝は大勢で登校していました。学生服の上に綿入れのハンテンを着て、その上にマントを羽織っていました。学生服の下は毛糸のセーターを含め、常時三枚以上着込んでいました。ズボンの下は、ラクダ色の分厚いモモヒキです。そして、低学年の頃は学生帽の上に、綿入れの防空頭巾のようなモノをかぶっていました。頭に学生帽だけの時は、ウサギの毛で出来た、耳かけをかけていました。そうしないと、耳が痛くなるのです。一冬のうち、最低気温が零下10℃以下の朝が何日かありました。両手には母が編んでくれた毛糸の手袋をかけていましたが、それでも冷たさで指の爪が痛くなりました。ちなみに、この爪が痛くなるのが、「冷たい」の語源ということです。

  国道でない旧道の通学路は、おおむね、人が通れるだけの細い一本道になっていました。旧道はバスが通らず、村道に格下げになっていましたので、人家密集地区以外の除雪はままならなかったのです。国道はバスが通るのでタイヤの跡、二本道になって、そこはアイスバーンになって歩きやすいのですが、新道なので回りに家が無く、吹雪がモロに吹き付けました。下校時刻は学年やクラスによってまちまちなので、もっぱら級友達数人で、人家の多い旧道を歩いて帰りました。そして、一人減り二人減りして、最後は私一人になってしまうのです。しかも、学校から途中まで来ると、人家が途切れてしまうのです。そこからは、さえぎる物も無い吹雪の中を、一人で歩かなければなりませんでした。学校まで二・三キロ程度でしたが、歩きにくいし吹き飛ばされるし、小学校低学年にとっては遠い道のりでした。雪をこいだりするので、靴はもちろん、長めのゴム長靴です。中に、藁をたたんで敷いていました。

  小学生高学年の頃、母が町で丈長のオーバー・コートを買ってきてくれました。濃紺のダブルで、ラシャの分厚いオーバーでしたが、母が寸法を見誤ったらしく(?)、少し窮屈でした。多分、サイズはそれしかなくて、お買い得だったのかも知れません。中に厚着は出来ませんでしたが、暖かい上等なオーバーでした。とても気に入っていたのですが成長期ですぐに着られなくなってしまいました。その後、母は防水のかかった、カーキ色のアノラックを買ってきてくれました。その頃、登山用のアノラックが流行っていたのです。一重ですが厚地で気密性が良く、スキーの授業には打って付けでした。中学生の頃には、学校に綿入れのハンテンを着てくる人は誰もいませんでしたが、学生服の上にジャンパーを着るのが流行りました。マンガの主人公の少年達も、そういう服装をしていましたし、先生達も、背広の上にジャンパーを着ていました。そんな時は、前のホック・ボタンを留めないで羽織るのが、流行の着方なのです。決まってリバーシブルで、表側がツイードになっていました。皆、申し合わせたように、学生服の上にジャンパーを着て、その上からアノラックを着ていました。そのジャンパーですが、ホック・ボタンが粗悪で壊れやすく、たちまち見かけなくなりました。高校に入った頃は、雪国に反して、半オーバーが流行りました。やはり母が買ってきてくれましたので、私も着ていましたし、私の高校の大部分の生徒達も着ていました。

  リバーシブルのジャンパーにしても、アノラックにしても、半オーバーにしても、当時日活などの映画スター達が着ていたファッションなのです。決まって都会的な大学生など、詰えり学生服の上に来ているのです。半オーバーは当時、全国的に流行りました。そうなると従来の、雪国では機能的な、丈長のオーバーがダサく見えてきます。やはり何時の世も、都会と同じ服装をしたいんですネ。
                        (2014.3.1記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.66 (佐藤 一)
★梨郷村、屋敷内に植えられた果物の樹々
  梨郷村の、農家の屋敷には、どの家にも果物の生る樹がいろいろ植えてありました。近くに店など殆んどありませんので、子供のおやつ用果物が主です。だいぶ昔に植えられた物が殆んどなのでしょう、大きな樹が殆んどでした。江戸時代は、農薬なんてありませんから、いずれも害虫に強い物ばかりでした。柿や栗・ナツメ・グミ・アンズやスモモ・梅などでした。私の家は農家ではありませんので、殆んど植えてありませんでしたが、母親の実家が大きな農家で、いろいろ植えてあったので、不自由はしませんでした。小学四年生まで住んでいた旧舟着場の家には大きなスモモの樹がありましたが、私はあまり食べませんでした。山麓近くの家に引っ越してからは、私が小さい頃母が植えたグミの木がありました。鋭いトゲがいっぱい付いた木で、大きくて真っ赤な甘い実を付けました。大きめの種が、ガラスペンの様な形をしていましした。一度渋い状態で食べた時、便秘して便が出なくなり苦労しました。母親実家の本家の人が看護婦さんをしていましたので、浣腸をかけて貰いに行きました。そして、ようやく出せました。それにコリて、以来グミは食べませんでした。グミは別種で、小さな丸い黄色の実を付けるものもありました。

  農家の庭先には、たいてい柿の木がありました。古くからの農家ばかりでしたので、いずれも大木になっていました。中には、原種で小さい実を付ける「豆柿」を植えている家もありました。柿渋はいろいろな用途に使われたようです。元々は渋柿しかなく、甘柿は新木ばかりでしたので、近年品種改良されたものでしょう。渋抜きした柿の方が糖度があるということでした。自家用少量の場合は、イロリの鉄瓶で渋抜きしました。ぬるま湯に渋柿を漬けた鉄瓶を、灰を被せた残り火の上に乗せていました。朝になると、渋が抜けているのです。市場など大量に出荷する場合は、麻袋にいれた柿を風呂の残り湯に漬けて、一晩かけて渋抜きし、出荷していたようです。干し柿同様、農家の貴重な現金収入だったのでしょう。柿は高い木が多かったので、収穫が大変そうでした。柿の木は枝が折れやすく、登ったり出来ません。田舎の子供達は木登りが好きで上手いのですが、「柿の木から落ちると、命は助からない」と、よく注意されていました。収穫は、長い竹ざおの先に細い木をYの字状に取り付け、細い枝ごとカラめ取っていました。ですから、てっぺんの方は取りきれません。それが寒中の硬い雪上に落ちて来たりしますが、それがとても甘いのです。カラスや小鳥などが枝先に残った柿を、よくついばんでいました。干し柿は、サツマイモの干し芋同様、正月、子供達のおやつになりました。ちなみに、北海道には柿の木が無いと聞いていました。

  山麓に建てた新築の屋敷に移ってから、花壇の横に梅の木が植えられました。何でも、母親が小学校の卒業記念に、学校から貰った苗木だったという話でした。母親の姉妹たちも皆、卒業記念に貰ったといいます。その後、母親の実家に植えてあったのを移植したのです。かなり育っていて、毎年いっぱい実を付けていました。おかげで、美味しい梅干をいつも食べていました。その梅は、黄色に色付いてもまだ硬さが残っているうちに、実がパカッと割れて、中の種が独りでに剥がれ落ちてしまうのです。ですから、漬けるのも簡単で、種が無いので食べやすかったのです。卒業記念だったくらいですから、特別な品種だったのでしょう。ちなみに、私の中学校の時の卒業記念は、小さな革袋に入った水牛の印鑑でした。就職して社会人になる人も、多かったためでしょう。その他の卒業記念品は何だったか、全く覚えていません。その程度のモノでした。考えてみますと、母が小学校から貰った卒業記念は、とても有意義な物だったと思います。後は、役立てるのも枯らすのも本人次第というのも、含蓄があります。
                       (2014.4.1記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.67 (佐藤 一)
★梨郷村を通る、国鉄長井線
  映画「スゥイングガールズ」に出てくる、第三セクター・フラワー長井線ですが、元は国鉄長井線といいました。梨郷村の山麓に沿った、旧道沿いに走っています。鉄道線路といいますと、田園風景の中を、延々と走るイメージですが、実際長井線も、駅周辺以外は、田んぼの中ばかり走っています。元々は鉄道敷設に期待された反面、鉄道敷設反対運動も起きて、どちらかと言えば嫌われました。それは、蒸気機関車の吐き出す煤煙と、大きな汽笛です。それから、それまで盛んだった、最上川の水運業者達の既得権益もあったでしょう。多分、彼らは財力を蓄えていて、政治力もあったでしょう。しかし、国家の富国強兵策に押し切られたのでしょう。輸送効率からみても、当然の結果だったでしょう。そんな訳で、当初嫌われることが多かった鉄道のせいか、駅は町外れに作られました。山形市や米沢市の駅がそうです。今でこそ、駅前は一等地になり賑わっていますが、以前は市の中心部からは遠く、何もない不便な所でした。山形県の南陽市に、赤湯駅があります。赤湯駅は山形新幹線の停まる駅ですが、その駅周辺は今でも閑散として、街並みも何も無い所です。しかし駅から大分離れた温泉街へ行くと、信じられないくらいの街並みと賑わいで、まるで別天地です。

   ところが梨郷村の梨郷地区の鉄道は、元々あった住宅地区の中に、国家権力で強引に鉄道を敷設したような形になっています。梨郷地区の旧道と民家は、盆地沿いの山脈と、最上川による洪水を避けた狭い地域に集中しています。ですから鉄道敷設に際しても、その場所しか無いという感じだったのでしょう。大型の建設機材など無い100年ほど前は人海戦術ですから、効率的に鉄道を通すのはそこしかないという形で、強引に押し進めていったのでしょう。鉄道が敷設される以前から住んでいた人達にとって、突然家の前に堤防のような高い土手が出来たり、景観が著しく損なわれたと思います。鉄道の敷設に際し、地形の高低さを是正するための工事だったのでしょうが、ぶしつけに人家の庭先をかすめ敷地を分断し、横暴の極みです。山麓の大叔母の家は、裏に接近して造成された、高い土手の上を線路が通ったので、頭上からの汽笛は大音響でした。蒸気機関車の汽笛は、電車のそれとは、比べものにならない大きさでした。農家の人はめったに汽車に乗ることなんてありません。長いモノに巻かれろ式に生き延びて来た農村社会ですから、泣く泣く受け入れたのかも知れません。これが都会だったら、猛反対にあったでしょうが、農民の人の良さを逆手に取った、強硬手段だったとしか思えません。運行本数の多かった昔は、子供などの事故も多く、住民はさぞかし戸惑ったに違いありません。

  梨郷地区の鉄道は旧道沿いに通っていましたので、学校の帰り等、数人で線路を歩いて帰ることもありました。男の子は蒸気機関車に興味があったし、レールの上を落ちないように歩いて競争したり、レールに耳を当て遠くの列車の音を聴いたり、いろいろ遊びながら帰っていました。梨郷地区の鉄道はカーブが多く、突然物陰から汽車が飛び出してくるような地形が多くありました。ですから踏み切りの事故なども多発し、線路を歩くのは、当然禁止されていたのです。男の子は、やってイケないと言われると、何故かやってみたいのです。そして突然背後から汽笛を鳴らされて、線路から転げ落ち、大笑いして喜んだりしてたのです。何しろ平々凡々で、スリルなんて全く無い田舎の日々ですから・・・。私にとって鉄道というのは、東京につながっているという憧れがありました。高校に通学していた米沢駅には奥羽本線が通っていました。そして、「福島行」鈍行列車の最後尾・車両横には、「上野行」の名札が差し込んでありました。福島駅で東北本線の列車に連結されたのでしょう。私が上京時に乗ったのは、鈍行の夜行列車でした。停車駅や臨時停車、待機時間などが多く、上野駅まで10時間程かかりました。それが今では、山形新幹線で二時間半です。直通は新幹線しか無くなりました。駅弁を買いながら、ゆっくり行きたいと思っても、他に選択肢がないのです。

  所で現在の第三セクター・フラワー長井線ですが、線路の手入れが全くなされていない様子です。国鉄時代は、5・6人の保線区要員の人達が常時、線路の手入れをしていて、草一本生えていませんでした。今は線路に草ぼうぼうで、レールは蛇行しています。ですから、かつて見かけた、レールの定期的取替えもやっていないと思います。乗っていても、横揺れが激しいです。朝晩、高校生の通学の足としてだけ、残っている形です。早晩、限界は来るでしょう。
                        (2014.5.1記載)
拡大写真が出ます

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.68 (佐藤 一)
★梨郷村の梅雨時、重たく暑い、雨ガッパの思い出
  私が小学生の頃、農家の人の雨具は、蓑・笠でした。時代劇などで分かるように、かつては警護の武士や商人の荷役などの際にも身に着けていたようです。一見、粗雑に思われがちですが、風合羽等よりも機能的に出来ていて、長時間の激しい雨にも耐えました。通学時の雨具といえば、唐傘(からかさ)でした。番傘といわれる丈夫で実用的な物ですが、小さめの子供用もありました。柿渋を塗った油紙が貼ってありました。ちなみに、提灯(ちょうちん)も同じような素材で出来ていました。父方の祖母の実家は提灯屋だったといいますが、提灯や傘の油紙の上には、屋号などの文字が書いてありました。そのままでは、水がはじいて書けません。聞いた話では、墨に酢を混ぜて書くのだそうです。あるいは、酢で墨をすったのかも知れません。丈夫な油紙でも、やはり紙ですから長期的には劣化し破れてしまいます。竹で出来たホネも一部折れたりもします。今と違って、昔は物を大事にしていたので、紙を貼り直しホネを差し替えたりしながら使っていたそうです。時代劇によく出てくる、貧乏長屋の「傘貼り浪人」というのは、そういった修繕専門の内職をしていたのだそうです。新品は全て、本職が作っていたそうです。

  私が小学校に上がる前は、雨避けは大人用の、笠や麦わら帽子で充分濡れずに間に合いました。しかし、小学校までクラスで一番遠かったし、いくら私が小柄だったとはいえ、そういう訳にはいきません。級友達は全て子供用の番傘を買って貰っていました。父は私に、傘ではなくゴム引きの雨ガッパを買って来てくれました。重く分厚い、どんな嵐にも充分耐え得る様な代物でした。長い道のり、濡れなくても済むようにとの、親心だったのかも知れません。アメリカ映画などを見て、都会的でカッコいいと思ったのでしょうか・・・。その雨ガッパを三年生頃まで使いましたが、私にとっては雨の日は「地獄」でした。特に梅雨時は大変でした。ゴム引きの分厚い雨ガッパは、通気性が全くないので、暑くて汗だくになりました。ですから雨の日は、とても疲れました。寒い季節も大変でした。雨ガッパを伝って流れ落ちる冷たい雨水が、歩いているゴム長靴の中に流れ込むのです。時々長靴を脱いで、その水を捨てなければなりませんでした。片道一時間位の雨の日の通学がイヤでイヤでたまりませんでした。しかし、良かれと思っている父には全く話が通じませんし、私も説得力のある言葉は見つかりませんでした。おまけに、その雨ガッパはとても丈夫で長持ちしました。四年生近くになってサイズが小さくなってしまいました。そして、ようやく番傘を買って貰い、雨ガッパを卒業出来た時にはホッとしました。

  高校に入学すると、黒い布製のコウモリ傘を買って貰いました。まだジャンプ傘はなく、骨太で頑丈に出来ていました。高度成長期前は、やはり修理して大事に使っていました。もちろん、一人一本しか持っていません。汽車通学で、列車の網棚に置き忘れたりすると大変です。駅員室に届け出て、二・三日して無事戻って来ると、ホッとしていました。現在は黒い布製の傘の他、ビニール製の傘を沢山買い込み溜まっています。緊急の雨に、患者さんに貸し出すためもあるのです。四十年位前で、ビニール傘がまだ普及していなかった頃です。その頃私は毎日のように、銀座の広告代理店などに出向き、仕事をしていました。その数年前、銀座三越に「マクドナルド1号店」が出来た頃です。ある時、銀座四丁目付近で激しい雨に降られ、しばらく止みそうもなかったので、三越でコウモリ傘を買いました。なんと五千円もしました。当時、三越は今と違って、高級品以外売っていませんでした。「サスガ三越だな・・・」と思いましたが、濡れてはイケないモノを抱え、タクシーも拾えそうがなかったので、仕方なく買いました。自宅の最寄り駅が、遠かったからです。自宅までのタクシー代の倍以上もしました。大柄な外国人でも充分差せそうな、大判の傘でしたが、大き過ぎて、大雪の日など、二・三回しか使っていません。

  普段はもっぱら、ビニール傘を使っていますが、スーツの時は黒い布製か折りたたみ傘を使っています。中高年の私としては、フォーマルな服装に、ビニール傘はそぐわない気がします。反面、自転車の時は透明ビニール傘の方が、前方が見えて便利ですネ。
                       (2014.6.1記載)

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.69 (佐藤 一)
★高校の夏休み、米沢機関区のアルバイト
  私は高校一年の夏休み、同級生男子三人と共に、国鉄米沢駅の機関区でアルバイトをしました。皆、初めてのアルバイトという感じでした。期間は二週間程だったと思います。毎朝通学時と同じ列車で出勤し、9時頃から3時頃までの勤務だったと思います。蒸気機関車の下にもぐって、機関車の清掃をする仕事でした。当時、奥羽本線は電化以前でした。普通旅客列車は、気動車と蒸気機関車が牽引していました。長距離は、全て蒸気機関車でした。機関庫には常時10輌程の蒸気機関車あり、整備などをしていました。庫内の作業が殆んどでしたが、屋外の作業もありました。線路のレールの間に、人一人がかがんで歩ける程の、溝が掘ってありました。コンクリートの頑丈な通路で、レール内側の枕木は、取り除いてありました。真夏の最中、触ると火傷する程熱い蒸気機関車の下にもぐって、掃除するのですから大変です。長さ30センチ程の鉄のヘラで、機関車に付いたカスを掻き取るのです。鋼鉄で出来た蒸気機関車は、駆動部分等の動きを良くするために常に注油されます。油壺の蓋を開けて潤滑油を満たすと、そこから銅製の細いパイプを通じて、各駆動部分に常時注油されます、ですから、蒸気機関車の多くの部分は、常に油にまみれています。常に給油された余分な油が溢れ、それにゴミが付着して、カスとなってこびり付きます。それを鉄のヘラで掻き取り、軽油を含んだボロ布できれいに拭き取ります。他に炎天下で、スコップを使った作業もありました。

  作業衣は、紺色の木綿で出来た上下で、同じ生地の帽子もありました。危険防止もあったのでしょうが、長袖で夏冬兼用の厚地でした。機関士さんも含めて機関区の人達は皆、この制服を着ていました。当時は冷房など、殆んどない時代でした。真夏だったせいもあって、機関車の側は熱気で熱く、汗だくでした。下着のTシャツは脱いで、直に着ていました。休憩時間などは上半身裸になっていました。汗がひどく、上着の背中は、白く塩が吹いていました。体に塩分が不足するので、休憩室のテーブルの上には、大きな薬瓶に入った、錠剤風の塩が備えてありました。そして各自、休憩時間等にお茶と一緒に飲んでいました。仕事が終わった後は、職員やその家族用の、大浴槽に入りました。早い時間帯でしたので、その時間に利用するのはアルバイトの私達だけでした。男女別はなく、時間帯で分けられていたようでした。蒸気機関車は火を絶やしてはイケないので、夜中の維持管理の人もいて、朝風呂に入ってから帰る人もいました。アルバイトの期間は二週間程でしたが、暑さで疲労コンパイ、激痩せしました。

  アルバイトの最終日、機関区の会議室みたいな所で、高校の先輩だったという機関区長を交えた懇談会がありました。意見や提案など聞かれましたが、一人でも機関区に就職してくれたら・・・と期待された面もあったかも知れません。当時は高度成長期の走りで、どこも人手不足の時代でした。蒸気機関車の機関士になるには、その助手の期間も含めて10年はかかると言われていました。蒸気機関車は、ボイラーを搭載しているので、一級ボイラー技士の資格も必要という事で、想像以上に難関でした。蒸気機関車の運転室は、スイッチやハンドルだけで操作する電車やバスの運転席とは、全然様子が違います。又、航空機のコクピットの様に整然としてもいません。まるで機械室のように、むきだしの機械が雑然としていました。運転席のレバー等の他に、圧力計などの計器類やバルブ等が沢山ありました。その計器に対応して、石炭をくべたり、ボイラーの圧力の調節したり、全部がマニュアル操作でした。しかも、左右の窓から前方の安全も確認もしなければなりません。構造上前方視界が悪いので、前方確認といっても、その殆んどは信号の確認業務という事でした。それらを機関士と助手の二人で、全てコナさなければなりません。後年、同年代の新幹線の運転士さんと知り合いになりました。伺った話では、新幹線の運転席は全て自動制御で、計器類を見ているだけなので、眠気を誘うという話でした。

  無事、機関区のアルバイトを終わって数日後、米沢駅と赤湯駅の片道区間、走行中の蒸気機関車の運転室に乗せて貰いました。後にも先にも、走行中の運転室に乗ったのは一度だけでした。その際聞いた話では、その15年後には、全国の旅客列車から蒸気機関車が消えてしまうという事でした。将来性が無い事もあって、小さい頃からの夢だった、蒸気機関車の機関士への道は、すっかり頭から遠のいてしまいました。あの頃米沢機関区で、機関助手見習いで働いていた若い人達も、新幹線の運転手になったかも知れません。蒸気機関車の問題点は、エネルギー効率の低さと煤煙にあったのです。ですから、観光目的にせよ、蒸気機関車が復活するとは思ってもみませんでした。その後復活したSL山口線の煙突には、平べったい、大きな脱硫装置が付いていました。そして、保存されていたSLが、各地で次々に復活されました。世の中、便利さ効率だけではないと、気が付いたのでしょう。新品の様にきれいに磨かれ、真鍮のナンバープレートなど、ピカピカになって甦りました。いずれも昭和初期までに作られたものとは、到底思えない程です。係わっている人達の思い入れが感じられます。そのせいか、蒸気機関車も生き生きと、喜び勇んで走っている様にさえ見えます。

  初めてのアルバイトで、たいした額ではなかったのですが、お小遣いでは手にした事のない大金でした。しかし、当時の高校生には、自分でお金を使える場所なんてなかったのです。級友達と、喫茶店にも入れませんでした。喫茶店に入ると、不良と言われた時代です。多分、当時の喫茶店には、男女カップルの同伴席と言うのがあったからでしょう(といっても、ボート遊び程度のささやかなプライバシーしかないのです)。親と一緒でなければ、映画館にもレストランにも入れない時代でした。学生服の襟章や帽子の徽章を見れば、どこの生徒かすぐにバレてしまいます。喫煙や飲酒なんてもっての他で、それで卒業を取り消された先輩もいました。結局、アルバイトで稼いだ金で、何冊かの参考書を買いました。今だったら、パソコンやケイタイとかいろいろ、使い道に事欠きません。
                        (2014.7.1記載)

▲目次へ戻る

 ふるさと、梨郷(りんごう)村 No.70 (佐藤 一)
★隣村、西大塚村の盛大な盆踊り
  梨郷村では、盆踊りをやっていたかも知れませんが、私が住んでいた所は梨郷村の中心地から遠かったので、知りませんでした。一度、近所の大地主だった家の中庭で行われたことがありましたが、それっきりでした。母親の実家のある、西大塚村では、毎年盛大に行われていました。いとこ達も沢山住んでいたので、両親と共に見に行っていました。旧舟着場の近く、学校や役場・診療所などがある大塚村の中心地で、町並みがありました。八幡神社の広い境内があり、夜店なども沢山出る盛大なものでした。この辺の地名も「やわた」と、言っていました。その八幡神社で、後三年の役の八幡太郎義家が、必勝祈願をしたかも知れません。八幡太郎義家こと、源義家は陸奥の守でした。八幡神社では、毎年恒例で秋祭りや盆踊りをやっていました。西大塚村は、梨郷村と比べて田んぼが多く、大きな村だったので、沢山の人が集まりました。ちなみに、西大塚中学校のグラウンドで、梨郷中学校との野球の親善試合があった時、梨郷中学校のピッチャーは一人なのに対し、西大塚中学校には、ピッチャーが三人もいました。当然、我が校が負けました。大塚の地名は、古墳が点在していたところから、名付けられたといいます。ですから、地方と言えども豪族がいて、それ相当の歴史もあったのです。

  八幡神社の盆踊りですが、子供だった私のお目当てとしては、立ち並ぶ夜店でした。おもちゃ類の他は、山形名産の玉こんにゃくでした。おでんのそれよりは、田舎風に味付けが多少濃くしてあり、関東のこんにゃくと違って軟らかいのです。調理法は、至ってシンプル。生醤油に酒とスルメを入れて、串に刺した大きな玉こんにゃくを煮込んだだけです。大人は、それにカラシを付けて食べていました。時間をかけて煮込んであるので、表面は全く醤油色でした。かじると中が幾分白いのです。遠くまで匂ってきて、たまらず食欲を誘いました。玉こんにゃく三個の串一本、買って貰いました。ちなみに、山形の玉こんにゃくは近年、デパートの物産展などで、スルメのタレ付きで売られるようになりました。元々は、椎茸ダシの精進料理だったと思います。田舎のもてなし料理のルーツの殆んどは、精進料理でしたから・・・。

  農村に、まだ若い男女が溢れていた時代です。盆踊りには、母の妹達やいとこ等、年頃の未婚女性が全て、踊り手として参加していました。ひょっとこのお面を付けた、やっこ姿の男性踊り手もいましたが、男性の殆んどは笛や太鼓のオハヤシが主でした。歌は民謡で、歌の得意な村人が、ヤグラの上で交代で歌っていました。お盆近くになると、青年団として集まって農作業の合間に練習していました。本番の女性達はメイセンの様な、派手な柄の着物にタスキがけで、花笠を被っていました。蚊に刺されないためもあったのでしょうが、手っ甲脚絆を付けていた気もします。一見、昔の旅姿の様にも見えました。明かりは沢山の提灯をぶら下げていましたが、中にはいずれも裸電球が入っていました。当時の未婚の女性は、日焼けしないように全身を野良着で覆い、手拭いや笠で顔を覆って農作業をしていました。ですから、シミ一つ無い色白で、まして二十歳前後ということもあって、皆健康で魅力的に見えました。昔は、この盆踊りで見初めた、カップルもいたでしょうし、自分の息子の嫁探しをした母親もいたでしょう。盆踊りのルーツも、その辺にあったのではないでしょうか・・・。外国のスクウェアダンスもそんなところなんでしょう。普段、牧場などで忙しく働いている純情な若者達に、なんとか出会いの場を作ってやろうとしたのではないでしょうか・・・。
                       (2014.8.1記載)

▲目次へ戻る

トップページカイロプラクティックって何?適応症・施術・料金・営業日時他行き方・地図
★腰痛・ヘルニア五十肩・膝痛頭痛・肩こり☆うつ症状・自律神経失調・不眠・ストレス
梨郷村BN
駒込王子

                         TOP
  
        Copyright (C) 2008 Komagome Chiropractic Center. All Rights Reserved.
  ※当ホームページ著作権は全頁、駒込カイロプラクティックセンターにあり、無断の転記・転載を禁じます。
フッターイメージ